ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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彼方より、日記。

ぼくは、おそらくだが、戻る場所を失ってしまった。

 

誰も彼もが、戻る場所を持っているわけじゃないことは知っている。ただ、多くの誰かには戻る場所があるはずさ。戻る場所があるってことは、帰る場所があるってことは、たぶん、たぶんそれは大きな救いなんだろう。

 

残念ながら今のぼくには、その救いはちょっと薄いのかな。

 

戻る場所はまだあるけれど、そこにはもう、戻りたくない。

 

だから結局、とどのつまり、戻る場所なんてもう、ないのさ。

 

顔を両手で覆い、大きく息を吸うと、陰鬱な空気の吸引音が辺りに響く。いや、それは音ではなく、ぼくの内に直接響いてくる何かなのかもしれない。

 

孤独って、例えれば自分が囚人で同時に自分が看守の独房で、そこに入り込むと世界はもうそこだけになる。外のことなんかどうでもいい。それはそれで、もしそれに耐えうるなら、それでもいい。ぼくがそれに耐えうるのか否かは、自分じゃわかんないけれどね。

 

いまは、誰かと酒を飲みながら話がしたい。

 

わがままなぼくの提示する条件は、純粋に気の合う誰かと、果てしない話をしながら、美味しいものを食べて、酒を飲んで、最後にはアルコールに押しつぶされて、突っ伏して眠りたい。

 

遠い昔には、そんな風なこと、あえて望まなくても、すぐそこの日常だった。でもいまは、なんだかそれはいつかみた映画に憧れるみたいな、必死で手を伸ばすようなものに感じられる。

 

きょうはちょっとましな日記かな、つねに真剣に日記を書こうと藻掻いているが、それがもし自分の思い通りになるなら、きっとこんな辺鄙な荒野に我が言葉を垂れ流す意味なんて、おおよそないんだよ。

 

いつか誰かが、この岩に記した言葉を、読んでくれれば。

 

2019.09.01 J.B.M