ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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ダークネス

「先が見えない道を歩くのって、あたし、けっこう好きなんだよ。」

 

狭い台所の小さな流し台で、ぼくの身体の右側面に磁石に吸い寄せられたブリキ人形みたいに引っ付いてカタカタと洗い物をしているミラが突然手を止めて、たぶんまだブリキにはなりきれないでいる首から上をも、ぼくの肩に引きつけられるように傾けた。その時ぼくは、時間も空間も何もかもが静止したように感じたが、水道の蛇口から流れ出るジョージョーという水音は、その何かの魔法やら呪縛を免れているようで、ただ一方向を見つめて単調な唸り声をあげていた。

 

「それは、仕事帰りに、夜の下城公園のあのクソ真っ暗な道を歩いて家まで帰ってくる話?」

 

「ん〜、ちょっと違う。あそこはさ、先は見えないけど、ただ怖いだけでしょ。」

 

「あそこは、怖い、それは知ってる。」

 

「うん、あたしも知ってるよ。ジェイは、どういうふうに、それを知ってるの?」

 

「おれも仕事帰りに、あのクソみたいなどす黒い闇を歩いて、家まで帰ってくるから。」

 

「なぜそのクソみたいな闇を歩いて帰ってくるの?その脇の道のさ、明るい、街灯がクソ明るい道路を通っても、同じくらいの距離だよ、家までは。なんで、あのクソみたいな暗闇を選ぶの?」

 

「さあね、でもあの道の入口にあずま屋があるでしょ。」

 

「うん、あるよ。でも、あたしはあそこ嫌い。顔が淀んでタバコ吸ってるアホみたいな奴らがいっつも屯してるから、あれほとんど近くの役所の人間でしょ。この間、あの場所で猫にタバコを投げつけてるスーツ姿のおっさんがいたの。役所のネームプレート下げてたよ。近くに転がってた鉄パイプで頭ぶん殴ってさ、殺してやろうかと思った。」

 

ミラの声の音量が「ぶん殴ってさ」のところだけやけに大きかった。

 

「賛成だね、でもたぶんそいつは、あのあずま屋の先にある暗闇でさ、夜に、クソみたいな暗闇で、いつかその報いを受けるさ。」

 

「暗闇で報いを?」

 

「そうさ。」

 

「どんな報い?」

 

「下手したら、死ぬかもね。」

 

「そうかあ、うん、でもあんなやつ死ねばいいよ、ごめん、話の腰を折ったね、それとジェイの真似をしてクソっていっぱい言っちゃったね、ごめんなさい。それで、あのあずま屋がさ、ジェイが暗闇を選ぶ理由なの?」

 

「腰を折ってはいない、話はつながってるよ。」

 

「うん。」

 

「猫。」

 

「うん、猫。」

 

「あのあずま屋に、毎日猫がいる。」

 

「そうなんだ、あたしはあんまり見かけない。そのタバコのときくらいかな。」

 

「それは何時くらいだった?」

 

「昼間だよ、お昼を、12時を過ぎたくらいかな、真っ黒い猫だった。痩せこけて、少し皮膚病にかかってるみたいで、体の毛が所々剥げ落ちてた。片目も病気みたいで、膿みだらけで、潰れてるみたいに見えた。」

 

「小池かな。」

 

「小池?」

 

「うん、小池ババアって、おれは呼んでる。」

 

「老猫なんだね。」

 

「いや、詳しくは知らないけど、このあたりの猫の中では有名人だよ、いや有名猫か。」

 

「他の猫に聞いたの?」

 

「そうだよ、猫に聞いた。」

 

「人間みたいな名前が付いてるんだ。」

 

「いや、違うよ、おれが勝手に呼んでるだけ、小池ババアって。歳はババアじゃないかもしれないし、名前も小池じゃないかもしれない。」

 

「なるほど、ジェイが勝手に誰かに名前をつける、いつものやり方だね。」

 

「おれ、いつも勝手に誰かに名前なんかつけてるっけ?」

 

「つけてる。」

 

「なるほど、きみが言うなら、きっとつけてるんだろうね。」

 

「つけてるよ。でもね、嫌いな人にはつけないの。つけるのは、好きな人だけ。」

 

「へ〜、おれの行動に詳しいんだね。」

 

ミラが食事を終えた猫が自分の口の周りを綺麗にするときみたいに、ぼくの右肩に顔をなすりつけた。

 

「納豆の匂いが服についちゃうよ。」

 

「あたし今日納豆なんか食べてないよ、バカ。」

 

ぼくはミラの頭を撫でた後に、彼女の額にキスをする。

 

「あずま屋の猫の話、もう少し聞かせて。」

 

「あのあずま屋にね、夜、必ず二匹の猫がいるんだ。」

 

「名前はなんていうの?」

 

「それは、おれが勝手につけてる名前ってことかな。」

 

「もちろん、だってつけてるんでしょ。」

 

「うん、一人はエドガー・アラン・ポー、もうひとりはトーマス・エドワード・ロレンス。二人に出会った頃、彼らはおれをみると一目散に逃げていった。そんな日々が何ヶ月か続いた。けれど、なぜかある日、突然、逃げては行かないようになった。なぜかは知らない。おれは飢えた彼らにミルクやドーナツや、あるいはサーモンを与え続けて機嫌を伺ったわけでもないし、彼らと親交を深めようと思っていたわけでもない。もちろん、顔見知りにはなっていたから、おれの顔を見た瞬間に逃げていくのはやめてほしかったけれど、その程度だった。でもなぜかある夜、ロレンスはぼくの姿を見るなり、駆け寄ってきて喉を鳴らした。ポーは、駆け寄ってはこなかったが、おれが彼の体に触れられる距離まで近づいても逃げなかったし、体に触れても少し驚くほどだった。」

 

「二匹は、彼らになったんだ。」

 

「そうだね、おれの中では彼らになった。だけど、二匹が彼らになった日、その先の暗闇の道で、怖いことがあった。いや、怖いなあと思う不可思議なことがたくさんあった。たかだが百メートルほどの距離だよ、でもいろんなことがありすぎて、なんだか何十分も歩いているような感覚がした。だから、あの日のあの道のりの闇は濃厚でさ、よく覚えてる。」

 

「なにがあったの?」

 

「聞いたら、夜にあの道を歩いて帰って来られなくなるかもよ。」

 

「聞いても聞かなくても、あそこは夜怖いから、歩いて帰ってこないしさ。」

 

「じゃあ、聞かなくてもいいんじゃない。」

 

「でも、聞きたいじゃん。」

 

「先が見えない道を歩くのが好きなら、明日自分で歩いてみたらいいよ。」

 

「ひとりで!?」

 

「もちろん。」

 

「やだよ!」

 

「入り口にはポーとロレンスがいるよ、きっと。」

 

「だって、あたし二匹とはまだ知り合いじゃないし、その先にただ怖い闇があるだけじゃん。」

 

「そうだね。」

 

「まってまって、話がよくわかんなくなっちゃった。ジェイはなんで、あの暗闇をあえて歩いて家に帰るのかって話だったよ。」

 

「先が見えない道を歩くのが、ただ好きだからだよ。」

 

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