ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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純然たる、狂人の強靭な日記。

この数ヶ月の、心が壊れたぼくの日記の断片を、ここにはめこんでみる。

 

実際この数ヶ月、まとまった文章など書ける状態ではなく、まともな食事も、正常な睡眠もままならなかった。ただ、無理をして元気を出そうとしても仕方のないことに途中で気が付き、苦しむだけ苦しんで、狂うだけ狂って、出来うる限り壊れまくってみた。

 

ただ表向きは平静を装っていたので、ぼくのことをかなり知っている人間でなければ、ぼくが地獄の底で、見たこともないようなおぞましい者たちに血肉を、そして心までもを貪られている最中だとは気付かなかっただろう。

 

個人のFacebookにはその地獄の断片が漏れ出していた。だから、知らないうちに友人が減っていたが、なんだかそれがやけにスッキリと感じられた。

 

ちなみに、地獄よりもはるか奥底の言葉に出来ないような暗黒にいた時の日記は、すべて破り捨てて焼いてしまったし、もう何を書いたのかさえ覚えていないので、たぶん今からここに綴る言葉は、比較的地獄を逃れようともがく途中のものだと思う。

 

風が強くて、風が強すぎて、呼吸がままならない。息ができない。そんなことを真剣に考えたことが、いままであったかなあと、ふと今朝、大風の中で思った。孤独と向き合うと、つまり孤独は向き合うものじゃないから、違うものと向き合い出す。陽の光や、風や、雨や。曇り空にも向き合う。そのいろいろに、話しかけさえする。夜半になって、稲光がし、稲妻の音が響き、雨が激しく降っている。雨や風は、言葉にも聞こえる。陽の光も、稲妻も、もちろん。そういうものたちは、優しい言葉などかけてはこないけれど、悪口は言わない。だからどんなに激しくても、厳しくても、ずっと耳を傾けていられる。自分が、そういうものになれたらと、今は思う。

 

 「嫌われ者だっていいさ、それも悪くないだろ」って、荒れ狂う空が教えてくれた。

 

 ネットだとかメールだとか、SNSだとか、そういうコミュニケーションが発達しすぎたせいで、誰かへの言葉を瞬間的に、考えなしに、発してしまって、本当の気持がまったく伝わらないことがありすぎて、誰かを傷つけてしまうことがありすぎて、あるいは言葉の意図を理解されなかったり、真逆の意味に取られてしまったりして、それってコミュニケーションとは呼べないよなって、改めて思う。Facebookしかりだけれど。言いたいことは、もっと別のことなんだよって。今が手紙か固定電話しかない時代だったら、おれの人生はずいぶん違っただろうなあ。

 

きょう、早起きして観た『ヴェラの祈り』ってロシア映画がすごく良かった。

 

きのう、久しぶりに、誰かのために心をこめてごはんを作って、ひとりぽっちじゃないゆうごはんを食べて、ひとりぽっちじゃないお酒を飲んだ。自分ひとりのために作るごはんよりも、誰かのために作るごはんのほうが何百倍もおいしいよなってこと、改めて思ったし、お酒は誰かと飲むのがおいしい。おにぎりは、誰かに握ってもらったほうがおいしいし、味噌汁は誰かに作ってもらったほうが、だんぜんおいしい。ごはんって、ごはんがおいしいのって、単なる食材や味の問題をこえたところにあるはず。ごはんを共にしてくれたきみへ、心からありがとう。また、食べにおいでよ。 

 

も〜、孤独すぎて体の節々が痛いわ、超高熱ある時みたいやわ、死ぬんちゃうの・・・?きょう、ワインのボトルひとりで三本くらい空けてるけど、まったく酔わねえ・・・、どんだけ飲めるんだろう。 

 

ほんっとに、ぎりぎりまで追い詰められてからが、強い。小学生の時、通信簿の備考欄に書かれてた。べるくんは、最後の最後にならないと力を、本気の力を発揮しません、って。それが、おれなんだなあ。

 

いま、おれを救ってくれるのは、もはや突発的に出くわした英雄的な、あるいは女神的な、見知らぬ誰かでしかない。

 

なんかさ、いきてゆくって、まったくもって、いきてゆく本人が考えたらいいんですよ。思うままに、思うように生きたらいいでしょ。それがね、どんなでもいいじゃん。みすぼらしくても、汚くても、ねじ曲がってても、いいじゃんか。そういうことがだめだって言われるような世界にあっても、自分の生き方のほうが大切だよね、誰かや世間の言うそんなこと、たぶん生きるってことの本質には、まったくかんけいないよね。生きること。 

 

バカだから、楽しく生きていられる。バカになりきれないから苦しいんだ。もっとバカになるべきだと思った。でも、そんな簡単になれねえんだよなあ、バカになるって悟りを開くことだろ。

 

誰にも助けを求められない人、誰にも助けを求められなくて、どうしたらいいかわからなくて、その挙げ句に崩壊してしまっている人、いっぱい、たくさん、いるはず。でも、そういうことはあまり世間には理解されない。なんだか変に際立って取り沙汰されることはあっても、本人のちょ〜たいへんな心の部分は、蚊帳の外なんだと思う。生きていくことの根底に、窓の外から突然忍び込んでくる、正体不明の生き物がいて、どうやって入ってきたのか、みたことのない生き物じゃないか、これをどうしたらいいのか、ぼくに害をなすのか、血を吸うのか、だったら殺したらいいのか、ほっておいたらいいのか、そういうことを、真剣に考えることが、たぶん必要だと思う。ぼくはそうしている。でもいまや、多くの人は自分では考えないのかな。自分では考えずに、誰かの噂話に依存するのかなあ。

 

誰かの苦しみもがく姿なんて、他人にはさ、路傍の死に損ないの、虫けらの姿に等しいと見えるのさ。たぶんおれもそう思っているのかも知れない。そしてそれが、あたりまえなのかもしれないよね。でもそこから、物語は、はじまるのさ。見知らぬ場所で真っ暗闇に包まれてからが、新たな物語の、はじまりだろ、なあ!

 

Facebookに、自分の嘘偽りのない顔色を書き続けてきて久しいけれど、それはある部分では間違ってはいなかったと、強く思うことが、時々ある。駄文と、暴言と、妄想が多くを占めるから、気狂いかと思われることのほうが多いに違いないが、それは望むところだ。でも最近は、発言をすべて消していく、そういう刹那的な使い方がよろしかろう。だから、そんなおれの顔色を伺ってくれる人は少ないかも知れないけれど、ちょっとは、いるらしい。顔色が、何色なのかを、みてくれている人がいることは、正直、短期的なリアルタイムでは判断できないけれど、いるんだとういうことが、ながい時を経て、なんとなくわかることがある。その判断が間違っていることも、あることはご愛嬌だが。そういうことに、なんて言ったらいいかは、よくわからない。うれしいこともあるし、涙をながすこともあるし、はははって笑うこともあるし。明日を望むのじゃなくて、おれは今を大切にしたい人間なんだと思う。明日よりも素晴らしい今を過ごすことが。昨日ではないのだ、昨日よりも素晴らしい今日ではなく、明日よりも素晴らしい今日なのだと思う。

 

あの日、ファンタスティックでロマンティクなポジティブさと行動力を駆使して、ぼくはこの土地にたどり着いた。あれからもう5年が経つ。いまどん底にいるけど、今こそあのときと同じような、ファンタジーな力を発揮する時なんだろうと思う。今日は、風が気持ちよい。風が気持ちよい日は、大抵は素晴らしいことが起こる。きょうも相変わらず何の予定もない孤独な日曜日だけれど、この数ヶ月の形式張った縛られた日常をぶっ壊すために、外に出かけよう。風に吹かれれば、いろんなものは吹き飛んでゆくさ。いままでも、ぼくはそうしてきたじゃないか。おはよう。 

 

コロナビールと山椒の実を買ってきて、糠床に山椒の実をいれて、コロナビールにあわせてサルサとチリを作った。若干だが、いつもとは違うことをしている、日曜日。いい兆しじゃん。

 

この数ヶ月、激しく心が壊れ、精神が荒れ狂った。ナイフで首を突き刺そうとか、湖に飛び込もうとか、猛毒を飲もうとか、朝起きると毎日毎日、真剣に考えて、それでも、そういう事が出来ずに、黙々と歩き続けてきた。もちろん今でも、歩き続けている。死にたいって、ちょっと真剣に思ったけれど、なんだかそこには行けなかった。それが、根源的な生への執着なのか、単なる瞬間的な痛みへの恐れなのか、あるいは何か別のものが踏みとどまらせているのか、それは自分でもよくわからない。少し昔の話だが、同じ職場で働いていた女の子が、自ら死を選んだ。少し心を病んでいることは知っていたけれど、ぼくの正面に座っていたので、時々言葉をかわしていた。彼女はドット絵に特化したグラフィッカーで、ぼくが時々、個人的なお願いをすると、「このキャラクターのドット絵を描いてよ」ってお願いすると、瞬く間に描いてくれた。ある日の終業間近に、妖怪の「百目」をドット絵で描いてよっていったら、とんでもない速さで仕上げて見せてくれて、とんでもないクオリティーだった。あの時のこと、いまでも覚えている。自ら死なずに、もっと素晴らしいドット絵を描いていたらよかったのにとも思うが、人には人の、いろいろな事情があるのだ。それを一概に、勝手に誰かが判断することは、決して出来ないはずだ。

 

どうにもこうにも、本質的なところで、まったく素直になれない。我ながら、なんて稚拙な人間なんだと、ほんとうに嫌になる。でも、つまりそういうこととの戦いなんだろうな、ずっとずっと。

 

ウォン・カーウァイの『恋する惑星』って、大失恋した時に観るには、なかなかよい映画だな。

 

もうずいぶん昔の話だけれど、初めて付き合った女性にふられてしまって、でも諦めきれなくて、彼女の住む街の駅まで会いに行ったんだ。 「駅で待ってるから、」ってメールだけを送って、なんのあてもなく、きてくれるあてもないのに、その駅で何時間も待った。メールの返信はなかった。 すっごく寒い冬の日だった。彼女とその駅で待ち合わせたことはなく、まったく見ず知らずの景色が、ぼくの目の前で何時間も何時間も流れていた。 そして、結局、その日彼女と会うことは出来なくて、それ以来いっさい連絡もないまま、今に至る。 あの日、諦めて家に帰るためにホームに降りた夕暮れ時に、雪が降ってきた。 あの時の、駅のホームから眺めていた雪の降る景色、多少色あせはしているけれど、いまでも、ある程度鮮明に覚えている。 その瞬間、ぼくの数少ない信頼すべき人に、おそらくは友人と呼べるその人に短いメールを送ったことも覚えている。 「彼女にふられちゃいました、いま雪が降っています、どうしたらいいんでしょうか?」 たぶん、そんな、くだらない内容だったと思う。 それが雪ではなく、涙みたいに流れ去る雨だったらよかったのに、それは降り積もる雪だったんだ。 あの頃、おれは恋人を失うと同時に、勤めていた会社が潰れてリストラされ仕事も失って、さらに一週間くらい原因不明の高熱が出て、病院で何度も点滴を打たれた。点滴を打つたびに熱は下がるが、横になったベッドが汗でびしょ濡れになった。そのことになんだか大きな罪悪感を感じた。 あの時期の記憶、ほんとうの現実だったのかなって、夢みたいに思えるんだ。 もちろん最上級の悪夢だった。 昔のことをよく覚えていない。誰しもあることかもしれないけれど、おれは大部分の記憶が、あまりない気がする。もしかしたらとんでもなく辛いことが多かったのかな。だから、そういうことをかき消す術を身につけてしまったのかな。 苦悩と対峙することは、大切なことだと思うが、それはしんどい。だが、しんどいが、割と好きでもある。でも、とんでもなく、しんどいことにかわりはない。 おれは、欲のありどころが、多くの人とはたぶんちょっと違うんだろう。 きょうの一番印象的な出来事を最後に。 スーパーのレジで会計中になぜが意識がどこかにぶっ飛んでいる最中、新人らしきレジのスタッフの若い女の子がわけのわからないミスをして、300円ちょっとの会計が一万円を越していた。彼女はすぐに「すみません・・・」と言いながらレジを打ち直していた。意識が飛んでいたから、特にそのことに何も感じなかったが、 ただ、最後にお釣りを渡してくれた彼女の手が、ものすごく温かかった。ちょっと恋をするんじゃないのかってほど、温かかった。 日常って、いったいなにかな。

 

車窓の端に声なく転がるハエの死体と、その周囲をせせこましく飛び回る小さな白い羽虫。世界のどこからどこまでがいったい、ぼくの世界なんだろうか。

 

ずっと眠っていたい。そういうこと、あるでしょ。

 

なるほどな。

 

きょうは数カ月ぶりに、いろんな欲求を開放して、もう滅茶苦茶な一日を送るって決めたんだよ。だからウェブログ更新する。これをきっかけに、また小説や映画の話や、あてもない行き当たりばったり日記が楽しく書けるようになるといいな。

 

いっこ書きたい小説のネタがあってさ、取り組んでみるかなあ。

 

あとさ、愛が欲しいぜ、コンチクチョウ。

 

 

月白貉