ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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青いバナナの香りと、日記。

今からバナナを食べようかどうしようか、たぶんもう一時間くらい迷っている。

 

それが人の生き方なのさ。

 

迷う時間を惜しいとは思わない。ずっと迷ってばかりだし、その迷いに明確な答えが出たことなんて、考えれば一度もない。そして今までにどれだけ迷いがあったのかを考えることこそが、そもそも迷路の始まりで、云々。

 

きょう、久しぶりにダーリンのつぶやきを読んだ。

 

ダーリンと言っても、恋人ではないし、諸星あたるでもなく、某日刊のダーリン。

 

「好き」の話が書いてあって、なんとなくぼくは自分の日記にしばらく嫌いなことばかり書いているような気がした。わかんないよ、気がしただけで、実は「好き」を書いているかもしれない。自分の日記はすぐには読み返さないから、だって、もう過ぎてしまったことを読み返す時間があるなら、いまは新しい日記を書きたい。

 

日々は過ぎてゆくのだ。その断片を文字で書こうが、写真に撮ろうが、映像に残そうが、どんな手段を用いたとしても、日々は留まらない、日々は過ぎてゆく。1時間前のことも、いや1/75秒前の刹那のことだって、それは過ぎ去った日々でしかない。

 

いま「好き」なことって何かなって、考える。

 

何も考えないで、明日のことも、もっと先のことも考えないで、「好き」が何かなんてことも考えないで、自分の緩やかな欲を満たすために、料理をしてお酒を飲むことかな。

 

けっこうそれはあたりまえの生活みたいだけれど、やっぱりなにかしらの明日は来るし、わけのわからないちょっと先の未来みたいな、おおよそ暗雲がモクモクと進んでくるみたいなものを、そういう自分の作り出した淡い悪夢を、まあ頭に創り出してしまうことが常にある。

 

けれど本当は、そんなものは現実にはなくてさ、すべて自分が作り出している物語の中に登場してくる、いまはまだ存在しない架空の時間で、つまり、生きている時間って見えないほんの一瞬だけで、あとはすべて、無に等しいものでしょ。

 

その一瞬だって、あるのかどうかさえ、よくわかんないよ。

 

そういうことを、人間より多く知っている生き物はたくさんいそうだけれど、彼らとの会話は出来ない。

 

彼らを研究し、コミュニケーションがとれているとか、理解できていると思っているのはバカな人間だけで、彼らとの会話は出来ない。

 

それは彼らが拒否しているからだと、そう思う。

 

今からバナナを食べようかどうしようか、たぶんもう二時間くらい迷っている。いや、もしかしたらぼくはもうかれこれ一年くらい、この場所に座っていて、電源の切れた冷蔵庫の中で腐り果てたバナナを食べようかどうしようかと迷ってることを、知らないだけかもしれない。

 

さっき窓を開けたら、かなり大きな、ちょっとびっくりするくらい大きなヤモリが部屋の中に飛び込んできて、ガスコンロの中に逃げ込んだ。ヤモリが入ってきたことは別に気にならないけれど、明日、もしそこにヤモリが居座っているままの状態でガスコンロを使ったら、たぶんヤモリは焼け死ぬだろう。

 

そういうことを思うのが、すごく怖い。

 

日常は悪夢なんだよ。夜見る夢を時として悪夢に感じるが、日常ほど悪夢ではない。

 

日常がどこまで現実で、夜の夢がどこまで非現実かという、たったそれだけの話だね。

 

きょうはバナナは食べない。明日は極力ガスコンロは使わない。

 

もう眠いから、早くこの夢から覚めてほしい。

 

おやすみなさい。