ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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第六章 - 孤独な蛙

前回の話第五章 - 尼僧と猿神

 

廃神社から団地までの道は、塩田とぼくが何度も何度も飽きるくらいに往復した、ある意味ではぼくと塩田を結んでいた道だった。

 

ぼくは中学の三年間、いじめにあっていた。

 

厳密に言うとそれは、ぼくが複数の誰かに直接的な危害を加えられていたわけではない。暴力を振るわれたり、お金を巻き上げられたり、嘲笑の的にされていたわけでもない。ただ他の生徒から完全に無視されて孤立状態になっていた。原因は、中学一年の時にクラスのあるグループからの誘いを断ったことだった。

 

その誘いとは、「あいつのペンケースを隠しちゃえよ。」というものだった。

 

当時クラスには体と心に小さな障害を持つ一人の男子生徒がいた。そして彼はそのグループから執拗ないじめを受けていた。あるいは彼が重度の障害を持っていたならいじめの対象にはなっていなかったかもしれない。ただ彼のその小さな障害が、クラスに複数いた“悪い”奴らの興味を煽ってしまっていた。

 

ぼくは、その「仲間に入れよ」という意味合いの誘いをきっぱりと断った。いじめられている生徒と特別仲が良かったわけではなかったし、彼がいじめられていることはクラスの他の生徒と同じようにもちろん知っていた。そしてそれに対して少なからず痛みのような感覚を覚えていた。それは、彼に対する哀れみや同情などではなく、彼に対するいじめという行為から目を背け耳をふさぎ、口を閉ざしている自分自身にたいする感覚だった。そして、そんな痛みを少しでも取り去るために、言わば自分の苦しみを和らげるために、ぼくはその誘いを断ったのだと思う。本当であればそこで、「彼へのいじめはもうやめろ!」と叫ぶべきだった。でもぼくには出来なかった。そしてその後悔の念がさらなる痛みとなってぼくを襲った。

 

結局誘いを断ったぼくは、おそらくは悪い奴らの裏での指示により、クラス全員から無視という迫害を受けることになった。それはその後三年間の間に、気が付くとクラスだけではなく同学年全体へと広がっていた。

 

ぼくはその日から毎日毎日、ひとりで学校へ行き、ひとりで弁当を食べ、ひとりで家に帰ってきた。部活に関しては自由加入だったため入ってはいなかった。だから生活の中で言葉を交わすのは担任と両親と祖父だけだった。もちろん時々は仕方なくクラスの誰かに言葉を掛けなくてはならない状況はあったが、そんな時でも彼らは可能な限りぼくとは目を合わさず、最低限度の「うん」とか「ああ」とかいう受け答えしかしなかった。中には申し訳無さそうな表情を浮かべ困惑を隠せない生徒も少なからず存在したが、もしそこでぼくと必要以上の会話を交わしてしまえば、つまり悪いやつらの言いつけに背けば、次は自分の身に災いが降り掛かってしまうという呪いを盲目的に信じていたし、それは事実でもあった。

 

そんな風にして日々は過ぎていった。

 

ある日の音楽の授業で歌を歌おうとしたぼくは、自分の声があまりにも出なくなっていることに気が付いた。日常的にほとんど口から言葉を発さない生活を続けていたぼくは、徐々に声を失いつつあったのかもしれない。しかしそういう生活に半ば慣れてしまっていたその頃のぼくには、その事柄は滑稽にさえ思えた。

 

日に日に言葉数が少なくなってゆくぼくに対して、一度だけ父がぼくに聞いたことがあった。「おまえ、学校でなにか問題でもあるのか?」ぼくはそれに対して何かを振り払うようにして乱暴に首を横に振り、「なにもないよ。」とだけ答えた。

 

中学三年になった頃、ぼくは長らく続く理不尽な迫害に慣れきってしまっていた。自分に対して何がされているのかなんてことも、たぶん忘れかけていたかもしれない。なぜならぼくは誰かに何かをされているわけではなく、ただ何もされないだけだったからだ。しかしその周囲の沈黙という、そして孤独という闇は、確実にぼくを蝕んでいたに違いなかった。

 

中学を卒業したぼくは、自分の住む地域から少しだけ離れた私立高校に通うことになった。ただ離れていると言ってもバスを使えば難なく通えるほどの距離だったため、その高校にも同じ中学だった同級生が多数入学していた。だからぼくは当たり前のように信じていた。

 

高校に入っても何も変わるはずはない、ぼくは永遠に沈黙の中をひとりきりで歩いていくのだろう。

 

しかし高校生活が始まってからの数日、周囲の生徒たちはぼくに当たり前に話しかけてきた。かつて同じ中学に通っていて、ぼくを無視していた多くの生徒でさえ、いままで何事もなかったかのように、それまでの記憶を喪失でもしたかのように、何の躊躇もなくぼくに声を掛けてきた。ぼくの周囲を取り巻いていた沈黙は、嘘のように消え去っていた。ただぼくはそこに喜びを感じることが出来なくなっていた。長く暗い沈黙の闇がぼくの中に産み落とした何かは、ぼくの中の様々なものを養分として大きく成長し過ぎていた。

 

そしてぼくは、その周囲の沈黙が破られた世界にあっても、自らの孤独を抱きかかえてしまうようになった。呪いから解き放たれることを自ら拒むようにさえ成り果ててしまっていた。

 

ーーーーーー

 

あの日、悪い魔女に理不尽な呪いをかけられ蛙にされてしまったぼくは、森の奥深くの薄暗い場所にある名も無き池に追いやられてしまった。それからの三年間、ぼくはほとんど鳴き声もあげずに、その池の中をただただ泳いだり、空を何時間も眺めたりして過ごしてきた。しかしある日、ぼくに呪いをかけた魔女は磔にされ焼き殺された。そして魔女の呪いで蛙にされたぼくの話を知った多くの人々が、ぼくを探しに池までやって来たのだ。彼らはぼくの姿を見つけると、皆それぞれに蛙の姿をしたぼくに声を掛けてくれた。しかし、魔女が死んだ今でもぼくの呪いは解けず、人間の姿に戻ることはなかった。だからぼくは、人々の掛けてくれる言葉がわからないふりをして、池の中をスイスイと泳ぎ回って、沈黙のままに空を眺めた。もう、死ぬまで永遠にこれでいいと、そんな風に思えた。そんなぼくを見て、池を訪れてぼくに声を掛けてくれる人は次第に減ってゆき、そして最後には、誰もやってこなくなってしまった。

 

それからしばらく経った日のこと、ぼくがふと思い立って池の傍にある古い遺跡まで足を伸ばすと、そこにはひとりの若い絵描きがいて、その遺跡の絵を描いていた。絵描きはぼくの姿を見つけると、嬉しそうに声を掛けてきた。

 

「あなたは、魔女に呪いをかけられて蛙にされた方ですよね?」

 

ぼくはいつものように、人間の言葉がわからないふりをしてそっぽを向き、ピョンピョンと跳ねて池に戻ろうとした。すると絵描きは、ぼくのこと呼び止めてこう言った。

 

「ぼくと、友だちになってくれませんか、だめですか?」

 

ぼくは体の動きを止めた。緑色をしたぼくの体の中の何かに、パリッと音を立てて小さな亀裂が入ったような気がしたからだ。

 

「ぼくはこうやって毎日絵ばかり描いています。将来は宮廷絵師になりたいと思っていますが、そんなぼくを皆は笑って蔑み、誰も相手にしてくれません。だからいつもこうやってひとりで、この誰もいない遺跡を訪れては一日中絵を描いています。家族以外では滅多に人と話すことなどないし、ひとりの友だちも、恋人だってもちろんいません。絵を描いていれば満たされるし、絵を描いている間は孤独を苦とは感じません。ただそれとは関係なく、ぼくの中に巣食う孤独は、日に日にぼくの中で膨らんでゆき、いつかぼくを飲み込むでしょう。」

 

ぼくは絵描きに背を向けて黙ったまま話に耳を傾けていた。

 

「ぼくはあの魔女に時々絵を描かされていました。魔女はぼくの妹に呪いをかけて、その呪いを解いてほしければ協力しろと言って、魔女が書いている魔術書の挿絵を描かされていたのです。ぼくは挿絵を描きながらも、魔女の目を盗んではこっそりと魔術書の内容に目を通していました。だから、あなたの呪いの解き方を知っています。」

 

ぼくの体の中に、確かにパリンという音が響き渡り、何かが割れた。

 

「ぼくがあなたの姿を絵に描いて、その絵を、森のさらに奥にある黒穴の樹と呼ばれる樹木の枝を薪にした炎で焼いて、その灰をあなたの体に塗れば、あなたは人間の姿に戻ることが出来るはずです。魔術書に書いてありました。そしてそこにはこうも書かれていました。その呪いをかけられた者は、人間の声は失うけれども、人間の声を聞くことは出来るし、理解することも出来るって、あなたはぼくの声が聞こえないふりをしているだけですよね?」

 

ーーーーーー

 

塩田は誰もいない廃神社の境内で、ぼくにこう言って話しかけてきた。

 

「同じクラスになった鹿狩くん・・・、だよね?塩田です、顔はわかるよね?おれ人見知りが激しくてさ、知らない人と話すの苦手で・・・、まだ話したことなかったけど、この近くに住んでるの?」

 

「あ、うん、近いと言えば近いよ、塩田くんは?」

 

「おれは、南黒町団地に住んでる。」

 

「そっか、それ何描いてるの?」

 

「ははは・・・、おれさあ、ちっちゃい頃から漫画ばっかり読んでて、漫画家になりたくて、自分で漫画描いてんだよ。今日はその、なんて言うか、この神社を背景の参考にするためにさ、この場所、不気味でカッコイイから。」

 

「へえ、すごいね、どんな漫画?」

 

「四コマなんだけど、怪奇四コマでさ、おれ心霊とかオカルトとか、そういうの好きで、四コマでそういう世界が表現できたらいいなって思って。」

 

「なんか、おもしろそうだね。」

 

「今度見せるよ!まあ大して面白くないかもだけど、おれオタクっぽく見られてるから・・・、まあオタクっちゃあオタクかもしれないけど、それで中学の頃、周りから避けられてたっていうか、いじめみたいなことあったりして、友だちほとんどいないからさ、見せる人、妹くらいしかいなくて。ネットで公開とかも、なんかちょっといろいろ言われるの怖くて・・・、ははは・・・。」

 

「そっか・・・。おれも友だち、まったくいないよ、リアルでもネットでもね。そういうのなんか面倒くさいっていうか、苦手になっちゃって。」

 

「へえ、そんな風に見えないけど。」

 

「そっかなあ。」

 

「じゃあ、友だちになってくれないかな・・・、いや、こんなこと言うの変だね。でもなんかせっかくこんなとこで偶然会ったし、こんなことなかったら学校ではおれ、鹿狩くんみたいな人にわざわざ自分から話しかけないと思うし、別に友だちじゃなくてもいいんだけど、今度おれの漫画読んでくれるかな?」

 

「友だちか・・・、誰かに友だちになってくれなんてストレートに言われたの、おれはじめてかも。」

 

「そうだよね・・・。」

 

「別にいいよ、友だち。それに今度漫画も読ませてよ。」

 

「おう!ほんと?それじゃあ、なんて呼べばいい?鹿狩くんでいい?」

 

「いや、くんいらないでしょ、別に好きでいいけど、おれは鹿狩白兎、カガリとかハクトって呼ばれることが多かったけど、今まで特にあだ名はないかな。」

 

「じゃあ、くんは無しで、鹿狩って呼ぶよ。」

 

「そっちはなんか呼んで欲しい名前があるの?」

 

「いや別にないよ、おれは塩田稔、家族はミノルって呼ぶけど。」

 

「じゃあ、塩田って呼ぶよ。ってか、なんか変な会話だな、ははは。」

 

塩田は、ぼくに掛けられた呪いを、あの日解いてくれたのかもしれない。

 

それから、ぼくと塩田は、何度も何度もこの道を歩きながら、たくさんの言葉を交わした。

 

ぼくは、ラゴに言われた通り頭を空っぽにして、団地に続くその道を歩こうとずいぶん努力はしたつもりだったが、そんなことは到底無理に等しかった。ぼくの頭の中にはずっと、神社の境内ではじめて交わした塩田との会話がループし続けていた。

 

その時唐突に、先を歩く祖父とラゴがピタリと歩くのを止めて立ち止まった。ぼくはその二人の背中にぶつかりそうになりながら、背後にくっ付くようにして立ち止まった。

 

前方にある電信柱に設置された防犯灯の明かりの下に、ルパン三世に出てくる銭形警部が身につけているようなトレンチコートに身を包んだ初老の男性が浮かび上がっていた。そして彼は右手を額の脇に掲げて、こちらに向けて警察官がするような敬礼をした。

 

祖父はその男性に向けて同じように敬礼をすると、彼に歩み寄りしっかりとした握手をした後、彼がコートのポケットから取り出した何かを手渡されているようだった。すると男性は再び祖父に敬礼をしてから後ろに振り返り、その先の右手にある路地の中の闇に姿を消してしまった。祖父がこちらに首だけ振り返ってラゴに対して小さく頷くと、再び二人は団地に向けて歩き出した。

 

気付けばその場所からはすでに、高台に建てられている南黒町団地の姿を目に捉えることが出来た。

 

その姿はまるで、真っ暗闇の洞窟の奥に祀られて鈍い光を放つ、何か巨大な生き物を象った彫像のように、ぼくの目に映っていた。

 

孤独な蛙

 

 

 

 

アースウィンドウ(Earth Wind)ぬいぐるみ クリップ カエル

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月白貉