ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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よもや、真剣日記。

妥協のない日記を、かつていままで書いたことがあっただろうか。

 

いや、そういうことを書こうと思ったことはあったし、書いた気になったことは無限だろうけれど、けれど、大抵はそんなものは書けないままに人は、穴熊の如き速さで、必死に走り続けるのだろう。

 

日記がはじまる。

 

艶っぽい夢の残骸を拾いながら、身支度をして仕事に向かう。一度玄関を出て鍵をかけてから、ベランダのミントたちに水をあげるのを忘れたことに気付き、再びバタバタと駆け回る。ただ、ベランダにいる彼らが、果たしてミントなのかどうか、ずっと疑問に思っている。ミントだとして譲り受けたが、彼らはほんとうにミントなのか。

 

この一年、道端で毎日顔を合わせる人間が増えてゆくことに大きな戸惑いを改めて覚える。なぜなら、その中に気分を害する要素が色濃く漂うからだ。明らかにこちらに悪意を抱く分子がいる。何が理由か知らないが、そういうことが、本当に嫌になる。

 

湖沿いを毎日あるき続けて思ったことは、死体が多い。海沿いならもっと多いかもしれないけれど。

 

残念ながら人間の死体は、まだ見たことはないが、残念ながら、でも水鳥の死体や、魚の死体や、時には獣の死体も、よく見かける。

 

巨大なエイとか、アリゲーターガーとか、タヌキやキツネ、日本の湖事情がよくわからない。

 

そして朝見かけても、夜にはなくなっている。徹底した管理体制かもしれないが、朝見るゴミは、ペットボトルや紙クズは、同じ場所にそのまま、何日も何日も、ずっと放置だ。

 

死体だけは、どこかに消え去っている。カラスや猛禽類が持ち去るのか、あるいは、別な理由か。

 

日記を書くのは難しい。もっと色鮮やかに日々を綴りたいけれど、気になることはわりと汚らしいことなのだ。だけれど、ぼくはどちらかといえば、日々のきれいな部分、色鮮やかな部分も、たくさん眺めている。

 

つまり、その対極がなければならない。

 

腐った死体の先にやけに青く輝く空があり、太陽が照っている。

 

毎朝腐臭の如き悪意を撒き散らす人物の影は、黒々しいなりに、景色を際立たせているのかもしれない。

 

まあ、そんな日々でさ、

 

明日、夕方まで眠ってたいじゃん、バカっ!

 

真剣な日記でしょ。

 

おやすみなさい。

 

 

月白 貉