ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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いいですかレディー、人が撃たれたら血は流れるものなんです日記。

22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。

それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。そして勢いをひとつまみもゆるめることなく大洋を吹きわたり、アンコールワットを無慈悲に崩し、インドの森を気の毒な一群の虎ごと熱で焼きつくし、ペルシャの砂漠の砂嵐となってどこかのエキゾチックな城塞都市をまるごとひとつ砂に埋もれさせてしまった。

みごとに記念碑的な恋だった。恋に落ちた相手はすみれより17歳年上で、結婚していた。さらにつけ加えるなら、女性だった。

それがすべてのものごとが始まった場所であり、(ほとんど)すべてのものごとが終わった場所だった。 

 

村上春樹の『スプートニクの恋人』を読んだのは、もうどれくらい前のことだったろうか。すっかり忘れてしまうくらい、昔だったことには間違いない。 たしか一度しか読んでいないので、物語の大枠さえもほとんど忘れてしまった。

 

覚えているのは、スプートニクに乗せられた犬の話が出てくることと、サム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』の話が出てくることと、物語とは関係ないが、当時ぼくが片思いをしていた女の子が、この作品を読んで村上春樹の書く子供の表現に難癖を付けてたこと、それくらいのように思う。あと確か007の話も出てきたかもしれない。

 

そうだ、あの女の子に恋をしていたってことは、大体の読んだ時期が頭に浮かんできた。ずいぶん昔の話だ。彼女は年下の大学生で、早稲田の文学部に通っていた。ちなみに、ぼくはもう大学生ではなかった。

 

彼女とは一度だけ映画を観に行った記憶がある。テレンス・マリックの『シン・レッド・ライン』、新宿の小さな劇場の最前列で観て、最初は彼女をデートに誘うことがほぼ100パーセントの目的だったにも関わらず、映画があまりにも素晴らしかったために、そのことをすっかり忘れてしまったんだ。

 

その日ではないけれど、彼女に自分の気持ちは大いに正確に伝えたが、結局フラれてしまった。彼女の部屋に一度だけ行った時に、部屋の天井の隅にクマのぬいぐるみが、まるで時代劇に出てくる隠密みたいに貼り付けられていたことをよく覚えている。

 

なぜふと、『スプートニクの恋人』のことを思い出したかといえば、その冒頭の言葉が、数日前に頭を過ったからだった。

 

広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。 

 

そんな激しい恋ではないかもしれないけれど、一週間ほど前からぼくはある女性に、たぶん恋をしている。そのことが、今ぼくの体の中の何かを圧倒的に変えつつあるような気がする。

 

こうやってまた、大した内容は書けないにせよだが、ウェブログを書き始めたこと、そして夜見る夢の内容と質が大きく変化したこと。ほかにも、客観的に見れば、様々なことがつい数日前とはまったく違っているかもしれない。

 

今のこの気持ちは、いったいなんだろうか、何かに撃たれて、流れ出た血みたいなものなんだろうか。

 

今この刹那、美味しいビールが飲みたいなあ。

 

 

月白 貉