ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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アリゲーターガーの湖

まだ日の上がらない早朝に私が目を覚ますとサエはもうベットの横にはおらず、台所の方から朝食の香りが漂ってきていた。

 

昨夜のアルコールがまだ背中や首元にへばり付いていて、時折私の耳をかじったり肩をギュウと抓ったりしていた。私はそのアルコールをゆっくりと剥ぎ取るようにして首を傾けて何度か肩を揉みほぐしてから起き上がりリビングに向かった。

 

「お早う、走ってくるの?」

 

サエがリビングに隣接する台所の流し台に向かって洗い物をしながら、こちらを振り向かずにそうつぶやいた。

 

私はその言葉の意味を考えながらゆっくりと文字を読み上げるように「お早う。」と言い、そのまま風呂場の洗面台にゆき自分の顔を睨みつけながら歯を磨き出した。正確に言うと睨みつけていたのは顔ではなく、左の側頭部にやけに増えだした白髪だった。

 

念入りに歯を磨き終えて透明なプラスチックのコップに蛇口から水を注いでいる瞬間に、先ほどのサエの言葉の意味をようやく理解した。昨夜私は酒に酔って、何度となく彼女にこう言っていたのだった。

 

「明日は、日が昇る前に起きてすぐに、湖に走りに行く。」

 

再びサエのいる台所を通過しながら、私は彼女に「今から走りに行ってくる。」と小声で伝え、すぐさま黒地のジャージに着替えて家を出た。

 

すでにもう日は昇り始めてはいたが、まだ初夏に入ったばかりの早朝は未だ知らぬ異国のようなひんやりとした空気に包まれていた。私は誰もいないアスファルトの道路の真ん中を陣取り軽いストレッチをこなしてから、ゆっくりと走り始めた。

 

静かに流れ行く景色の中には、誰一人として人間は存在しなかった。もしかすると昨夜の間に私とサエ以外の人間は、この世界から消滅してしまったのではないのかと思うような静寂が辺りを埋めていた。

 

しばらくそんな誰もいないアスファルトの道路を走り続けていると、昔読んだミヒャエル・エンデの物語を思い出した。道路掃除婦のベッポはまだ誰もいない道路を掃除するのが好きだった。そして彼は次の一歩のことしか、次のひと掃きのことしか考えない。たしかそんな話が出てきたはずだった。

 

しばらく走り続けると湖が見えてきた。私の目の前の湖の岸辺を老夫婦が手をつないで歩いていて、夫のほうが湖の中心あたりを指差しながら妻の耳元に口をあてて何かを囁いていた。私もその老人の指差す方に目を向けてみたが、そこには茫漠とした湖が目に映るだけだった。けれどそこには、あの二人にしか見えないものが確実にあるのだろうと、そう思った。

 

湖岸に沿うようにしてしばらく走っていると、街中ではまったく見掛けなかった人影が疎らに見えはじめた。そしてその誰もが皆、湖の中心あたりを見つめていた。ただひとりだけ、湖岸に寝転んで死んだように眠っている老人がいた。それはまるで昆虫の抜け殻のようだったが、あるいは本当に抜け殻だったのかもしれない。

 

湖岸に立てられた人魚姫の彫像のところまで来ると私は踵を返して、今度は自宅に向けて走り出した。この人魚姫を私は湖のジョギングでの折り返し点と決めていた。その先に走って行ったことはこれまでに一度もなかった。そしていつからか、その人魚姫が私に恋をしているような気がしていた。

 

湖から離れて街中へと戻る最中、私は橋の上で再びあの紳士の姿を目にした。彼は遠目に私のことを眺めながら軽く帽子に手をかけてウインクをした。私はその挨拶に答えるために、かぶっていたアディダスのキャップのつばに手をかけてから、その手を拳銃の形に変えて彼の体を撃ち抜いた。

 

私が死を宣告されてから、今日でちょうど一週間が経った。つまり私はあと23日後に死を迎えるのだった。

 

その紳士に出会ったのは人気の疎らな市立図書館の休憩所だった。自動販売機でミネラルウォーターを買っていた私に、背後から声を掛けてくる男性がいた。大きな刈り取り用の鎌を持って、真っ黒いタキシードを身にまとい、やはり真っ黒なシルクハットをかぶった初老の上品な紳士だった。彼は私に少し外を散歩しないかと持ちかけてきた。その瞬間、図書館の中の時間が止まっているように感じた。

 

私は催眠術にでも掛かったように、何の疑問もなくその紳士の後に付いていった。

 

図書館の周辺の小さな森を紳士に導かれるように歩いていると、彼は唐突に立ち止まって私に囁いた。

 

「急なことで誠に失礼ながら、あなたに大切なことをお伝えに参りました。あなたは、今日から30日後に死にます。」

 

そう言うと紳士は、本当に風のようにしてスッと森の木々に中に走っていってしまった。

 

私が夢現のような状態で家に帰ると、玄関を入ってすぐにポケットのスマートフォンが震えだした。着信の表示には死んだ祖父の名前が浮かび上がっていた。祖父が死んだのはもうずいぶん昔のことだし、もちろん携帯電話など持っているはずもなく、電話帳に祖父の名前を入れた記憶など一切なかった。

 

電話に出てみると、その声は先ほど図書館で出会った初老の紳士のものだった。

 

「先ほど言い忘れたことがありましたので、勝手ながらお電話差し上げました。今ご都合はよろしいでしょうか?」

 

「あ、はい、都合はいいですが、着信の表示には私の祖父の名が。」

 

「はい、そのことにはあまり意味はございません。単なる記号のようなものです。」

 

「そうですか、で、言い忘れたこととは?」

 

「はい、私があなたにお伝えした死のことに関して、他の誰にも口外しないで頂きたいのです。もちろん、私のこともです。」

 

「はい、それは構いませんが、もし口外すると何か罰があるのですか?」

 

「いいえ、そんなものは勿論ございません。言ったから罰があるとか、言わなかったから褒美があるとか、そんなことに意味などございません。私とあなたの約束というだけのことです。」

 

「わかりました、では、出来る限り約束は守ります。」

 

「結構、それでは失礼させていただきます。」

 

電話は唐突に切れた。私は念のためスマートフォンの電話帳を確かめてみたが、そこに祖父の名前など登録されてはいなかった。

 

あれから特にいつもと変わらない一週間が過ぎ去った。ただ今までの毎日と一つだけ違ったのは、時々ふとした瞬間に、私の頭の中を「自分は死ぬのだ」ということが暴れ馬のように駆け巡ることだった。けれどその日、久しぶりに早朝から湖に走りに出てみて何もない湖を眺めていて、ようやく気が付いたことがあった。

 

それは、自分の死ぬ日が明確にわかっているということは、なんと清々しいのだろうということだった。

 

自宅の近くにある小さな森の遊歩道に差し掛かった時、ひとりの老人が老木に手を当てて涙を流していた。様子からすると、何かを悔いているようだった。

 

顔が溶けるほどに涙を流す老人の横を通り過ぎた時、ウォン・カーウァイの映画の中でチャン・ツィイーが言っていた台詞を思い出した。

 

「悔いのない人生なんて、味気ないわ」

 

いつやって来るのかもわからない自分の死に怯えながら、人は変えることの出来ない過去ばかりを悔いている。もしそれこそが生きるということなら、私はもう十分に生きたはずだった。そして今、私は自分の死ぬ日を知っているのだ。

 

ジョギングを終えて自宅の玄関を開けると、サエが笑顔でお帰りと言ってくれた。サエにはもちろん私の死ぬ日は教えていない。それはサエを悲しませたくないということもあったが、紳士との約束でもあったからだ。

 

「携帯がブーブー言ってたよ。」

 

サエが私のスマートフォンに着信があったことを告げてくれた。私は汗にまみれたキャップを風呂場の洗面台の脇に置くと、リビングで充電中のスマートフォンを手に取った。着信はメールのようだったが、それはサエからのものだった。

 

あなたが湖に走りに行っている間に、あなたにメールを送ります。たぶんあなたがこのメールを読んでいる時に、私はあなたのすぐ近くいると思うけれど、このメールのことについてそこにいる私には聞かないで下さい。

 

私はあと23日後に死ぬそうです。本当に死ぬのかどうかはわからないし、このことは誰にも言ってはいけないと言われたけれど、あなたにだけは言っておきたいから。図書館でタキシードを着たおじいさんに出会って、彼が私の死ぬ日を教えてくれました。そして、このことは誰にも言ってはいけないと言われました。それは約束だと。こんなことを言ってもあなたは信じないかもしれないし、でももしかしたら、あなたなら信じてくれるかもしれません。

 

そのおじいさんが別れ際に、何か聞きたいことはないかと言ったので、私は死んだらその後どうなるのかを聞きました。彼は笑顔で教えてくれました。私はアリゲーターガーという魚に生まれ変わるそうです。そしてあなたが今眺めているかもしれない湖で暮らすことになるそうです。だからもし私が23日後に本当に死んでしまっても、悲しまないで下さい。そしてもしあなたが望むなら、湖に私の姿を探して、時々会いに来て下さい。私もあなたの走る姿を探して、湖から顔を出すから。

 

じゃあ、その時まで。

 

その日の午後、再び私のスマートフォンに祖父の名前で着信があり、その電話に出てみるとそれはやはりあの紳士の声だった。

 

「ご機嫌いかがですか?」

 

「はい、ずいぶんいいほうだと思います。」

 

「結構、毎回慌ただしいお知らせばかりで失礼、なにぶん私も多忙なものでして。お電話差し上げたのは、今回のことに関して何か質問などあればと思いましてね。いかがでしょうか?」

 

「あの、死んだ後、私はどうなるのでしょうか?」

 

「はい、ではお答えいたしましょう。あなたは生まれ変わります。ただし、今度は人間ではございません。」

 

「そうですか。もしかして生まれ変わるのは魚ではないですか?」

 

「左様、もうお気付きのようですね、ではわざわざ私からお教えすることもございませんでしょう、では失礼。」

 

電話は唐突に切られてしまった。

 

変えることの出来ない過去を悔いても意味が無いと、シェイクスピアは書いている。しかし変えることが出来ないのは過去だけではなく未来も同じことだと、その時私は思った。

 

私は23日後にもしかしたら何度目かになるかもしれない死を迎え、その後はおそらくアリゲーターガーとなって湖を彷徨うのだ。

 

サエが帰ってきたら、そのことを教えなければいけない。それが紳士との約束を破ることになったとしても。

 

外ではいつの間にか雨が降り出していた。サエは30分ほど前に湖を見にくと言って家を出たが、傘を持っていたのだろうか。私は窓の外に見えるアパートメントの屋上の給水塔を眺めながら、朝見た湖の色のことを考えていた。

 

アリゲーターガーの湖

 

 

 

アリゲーターガー(約6cm)(1匹)[生体]

アリゲーターガー(約6cm)(1匹)[生体]

 

 

月白貉