ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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アルファとオメガの水色

ぼくが振り返ると、ミラは自転車の正面をぼくの立っている場所とは反対に向けたまま、ぼくの方に体を振り返らせ、何か湿り気のある小さくて透明な柔らかい球体を覆い隠すような悲しげな笑みを浮かべて、こちらをずっと見ていた。その姿を見て歩みを止めたぼくは彼女の方に向き直り、もう一度ゆっくりと彼女の立っている場所に向けて歩き出した。彼女は、そのぼくの行動を予め知っていたかのようにして、ぼくが近づいてゆくに連れて今度はちょっといたずらな笑みを浮かべた。

 

ぼくは、両手で自転車のハンドルを握っているミラの左手をそのハンドルから優しく剥ぎ取り、彼女の指と指の間にぼくの右手の指を滑り込ませて強く手を握った。すると彼女はぼくの何百倍とも思える強さでぼくの手を握り返し、自転車を支えているもう片方の右手を滑らせるようにすっとハンドルから離して、その腕をぼくの首に巻き付け、ぼくの体を自分の中に取り込むみたいにして強く抱きしめた。

 

主を失った自転車が、故障して動けなくなる直前のロボットが放つ悲鳴のような音を立てて地面に倒れた。おそらくそれはかなり大きな音だったに違いないが、その時のぼくにはその音が、どこかずっと遠くにある家の中のテレビから漏れ流れてきた古いSF映画の効果音のように感じられた。

 

彼女に強く抱きしめられながら、ぼくはしばらくの間、地面に倒れた自転車をじっと見つめていた。

 

「ほんとうは今、手を離したくないんだけど、一瞬だけ離してもいい?」

 

「ぼくも離したくはないけれど、いいよ、刹那の間なら。」

 

「刹那って言葉、よく使うよね。」

 

「そうかな?」

 

「うんうん、使う使う。」

 

「じゃあ使うんだろうね、使い方が果たして合ってるかどうかは別にしても。」

 

「瞬間ってこと、でしょ。」

 

「たぶんね。」

 

ミラがぼくの耳元でくすくす笑っているのがわかった。その吐息をもっとしっかりと感じるために、ぼくは地面の上で死んだように動かなくなった自転車を見るのをやめて目を閉じた。彼女の左手の熱がぼくの右手から唐突に消え去ったような感覚があってからほとんど間を置かずに、その手はぼくのズボンの右ポケットにねじ込まれていた。

 

「なにをしてるの?」

 

「今は教えないけど、この後バイバイして、その後、ウチは自転車に乗ってピューって行っちゃうけど、ウチのことが遠くの景色の中にもまったく見えなくなったら、ポケットに手を入れてみて。」

 

ミラがそう言ってポケットから手を引き抜くと、ポケットの中の生地の下にあるぼくの太ももに大きな穴が空いたような気がした。その穴を湖の果てから押し寄せる強く激しい風が何度も何度も吹き抜けていった。

 

「今は、ポケットに手を入れちゃだめなの?」

 

「だめだよ、言ったでしょ、ウチのことが・・・、」

 

「遠くの景色の中にもまったく見えなくなったら、でしょ。」

 

「そうそう、よくわかってるじゃん。」

 

「もちろんわかっているよ、たぶん理解は早いほうだと思うから。でも、そんなことを言われたら今すぐにポケットに手を入れたくなっちゃって、だからあえて聞いてみたんだよ。」

 

「へ〜、でもだめなの。」

 

「どうしてもだめ?」

 

「どうしても、だめ。ウチなりのこだわりがあるの。」

 

「恋人との手の握り方に、きみなりのこだわりがあるように。」

 

「そうそう、よくわかってるじゃん、理解が早そうだね、シュンちゃんは。」

 

「ちゃん付けは嫌だって言ったのにさ、いつの間にかミラはぼくのことを当たり前にちゃん付けで呼んでるよね。」

 

「だめ?」

 

「だめじゃないよ、今はそのほうがいいなって思ってるから。」

 

「そっか、なんで考えが変わったの?」

 

「昨日、昔のテレビドラマをネットで観返してたらさ、その物語の主人公はぼくと同じシュンって名前なんだけど、話の中で彼のことを唯一ちゃん付けで呼ぶのが、彼と運命的な出会いをする女性なんだよ。だから、ミラにちゃん付けで呼ばれるのも悪くないかなって。」

 

「へ〜、なんてドラマ?」

 

「今は教えないけどね。」

 

「ぁ、真似じゃん。」

 

「そうだよ、世界はすべて真似で成り立っているんだ。」

 

「へ〜、で、いつ教えてくれるの?」

 

「いつ教えると思う?」

 

「この後バイバイして、シュンちゃんが歩いて行っちゃって、シュンちゃんが、遠くの景色の中にもまったく見えなくなったら、でしょ。」

 

「そうだよ、ミラはたぶん、おれよりもずっと理解が早いみたいだね。」

 

「だめ?」

 

「だめなんかじゃないよ、理解が早いのは特別悪いことじゃないと思うし。」

 

「へ〜。」

 

大きなコウモリが血を吸っていた獲物から牙を引き抜き、翼を広げて空に飛び去るみたいにしてミラがぼくの体から両手を離すと、すでに決まっていた映画の筋書きみたいにして二人は何度も何度もキスをした。そのたくさんのキスの最初の唇の触れ合いが、彼女との初めてのキスだった。

 

その時のすべてのキスの最後に、ぼくはミラの鼻先に自分の鼻先を優しく擦り付けた。すると彼女はなんだか幼い少女みたいな声を出して笑った。

 

「じゃあ、バイバイ。」

 

「バイバイ。」

 

ミラが地面に横たわっている自転車を起き上がらせて両手でハンドルを握ると、いままで地面に死体のように転がっていた自転車が小さく息を吸い込んだような気がした。豪快に足を上げてその甦った死体みたいな自転車のサドルに跨り、ぼくに背中を向けた彼女がもう一度上半身を振り返らせた時、彼女の顔には、ぼくが出会ってから今日までの間には見たことのないような複雑な笑みが刻まれていた。

 

ぼくがそのことについて彼女に言葉をかけようとした瞬間、彼女は前を向き直り、湖を駆け回る風に溶け込んだ透明な鳥のようにして、ものすごいスピードで自転車で駆け出した。

 

ぼくの目の前の風景の中でどんどんと小さくなってゆくミラと自転車の背中が大玉のグレープフルーツくらいの大きさになった時、彼女が大きな叫び声を上げたのが聞こえた。

 

「シュンちゃんっ!!!」

 

ミラはぼくの名前に続けて何か言葉を叫んでいたが、それはぼくには聞き取れなかった。ぼくは一人で小さく微笑み、「ちゃん付けか。」と口に出してつぶやいてから、どんどんと小さな点になって景色の中に消えてゆく彼女と自転車に背を向けて歩き出した。

 

その日以来、ぼくはその日はいていたズボンのポケットには一度も手を入れていない。

 

なぜなら、あの日のぼくの景色の中から、ミラがまったく見えなくなることが、その姿が消え去ることがなかったからだった。彼女は確かに言った。

 

「ウチのことが遠くの景色の中にもまったく見えなくなったら、ポケットに手を入れてみて。」

 

だからぼくには、そのポケットの中に手を入れることが出来なかった。けれど、ポケットの中に一体何があるのかを、毎日のように想像し続けた。

 

ぼくのズボンの右ポケットの中には、子供の頃によく遊んだビー玉くらいの大きさの水晶みたいに透明な球体の鉱物が入っていて、その中心部分には水色をした胎児みたいな形のものが、あるいは"みたい"ではなく何かの胎児が内包されている。そしてそれは、ミラがぼくにかけた魔法で、ぼくがポケットの中に手を入れることで完全に消え去ってしまう。つまり、ぼくがポケットの中に手を入れた瞬間に、その鉱物はまるで熟れ過ぎたほうずきの実のようにあっけなく破裂し、その中に含まれた透明な羊水がすべて流れ出してぼくのズボンを濡らし、あとに残された水色の胎児は、わずかに苦しげな表情を浮かべて、そのまま息絶えてしまう。

 

そしてその瞬間に、水色の胎児が命を失った刹那に、魔法は完全に解けてしまう。

 

その柔らかな球体の鉱物の意味も、内包された水色の胎児の意味も、もちろんぼくにはまったく理解できるものではない。けれどぼくは想像する。

 

魔法とは、結局そういうものなんだろうと。