ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

follow us in feedly

無意識の殺意と、アンダーポイズン日記。

ぼくが部屋の外に放った、花束から現れたイモムシは、玄関の近くで誰かに踏み潰されて、体内の臓器みたいなものをぶちまけて死んでいた。数日前の出来事だ。

 

いまでもその死体が、そこにある。

 

なかなか大きな罪悪感があった、もっと別な場所に放つべきだったと。そしてその死体を片付けることが躊躇われた。理由はわからないけれど、それはたぶん罪悪感が大き過ぎたからじゃないのだろうか。

 

きみは、一日にどのくらい、何かを殺すだろう。

 

ぼくはきょう、自分が認識しているだけで、小さな虫みたいなものを二匹殺した。指で捻り潰した。

 

自分に明らかに害をなすものを殺すことにはあまり躊躇はないし、後悔もない。まあそれが、大きな生物、例えば人間とかじゃなければね。

 

虫とかさ。

 

ぼくの血を吸って、さらに毒を盛る昆虫がウヨウヨいる。血を吸うだけならいい、多少の血なんて毎日流しているから、そんなものくれてやる。でも、それだけなら許せるが、なぜ血を奪いながらさらに、体に毒を盛るのか。

 

その毒で死ぬことだってあるのさ。

 

今日殺した虫みたいなものは、脅威じゃなかった。血も吸わないし、毒も盛らない。ただ少し不快だっただけだ。それでも殺してしまった。

 

命がどうとか、様々なところで、人間の目線でああだこうだ言われている。人間の目線だけでね。

 

例えば、誰かと一緒に暮らしている犬をぼくが殺しても、それは器物破損だと聞いたことがある。

 

犬は、命だろ。

 

犬が血を吸わなくても、毒も持っていなくても、誰かはその犬を殺すかも知れない。理由は不快だから、かもしれない。

 

狂っているのは、ぼくたちなんだ。

 

周囲の自然の脅威が、もっと顕著にならない限り、ぼくたちはそのことを軽んじるのだろう。

 

ああ、だからある種の虫たちは毒を盛るのか。血を吸うだけじゃ、ぼくらはわからないからだ。

 

雑な日記になったかな、ジャンクな日記にもならなかったかな。

 

きょうは疲れ果てた。疲れ果てた時に、例えばこんな日記を書く。

 

明日はもっとまともな日であればいい。

まあ、おおよそまともな日々なんて、生きているうちには訪れない。

 

まともな日々とは、血を吸われてもいいが、毒は盛られない日々だ。

 

血なんて、好きなだけくれてやる。吸いたければ大いに吸えばいい。

 

だたもしその傷口から毒を盛るなら、ぼくはきみを殺す。

 

それを知っておきたまえ。