ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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涙の理由

「ねえ、さっきから変な黒い虫が顔の周りをずっと飛び回るよっ、なんなのこれっ!タオルで払ってもいなくならないよ、ねえ、うざいよこれ、どうにかしてよ、もうやだよっ!」

 

アキが頭の狂った交通整理の女性警官みたいに、ぼくの横でハンドタオルを激しく振り回している。時間は13時25分、とある小さな山越えの道沿いだった。

 

「メマトイか・・・、ハッカのスプレー、したのになあ・・・。」

 

「走ろう!走って振り切ろう!人間のほうが早い、走るのはやいっ!」

 

アキはそう言いながら、ぼくの話は聞かずに、ちょっとした猛ダッシュですでに走り出していた。

 

「アキっ!下りの坂道だからアブナイよ!それにメマトイはきみより早いから、振り切れないよっ!一匹だけじゃなくてその先にもたぶんたくさん群れてるからっ!」

 

急なカーブを走り抜けて一瞬ぼくの視界から姿を消したアキが、「もう嫌だ〜っ!!!」と絶叫しながら再びぼくのもとまで走り戻ってきた。

 

「振り切れないでしょ・・・、その黒い影・・・、」

 

「ずっと目の前にいて、目に入ってこようとするよっ!!!これなんなのっ、もうやだよっ!」

 

「メマトイだよ、目を覆う水分に含まれた塩分なんかが欲しくて、目に飛び込んでくるんだよ。それを避けるために、帽子にはハッカを含ませた水をスプレーしてあるんだけれど、きょうはまったく効果がないみたいなんだ・・・、種類が違うのかな・・・、とにかく後少しでこの森は抜けるから、そしたらいなくなるよ。」

 

「目に飛び込まれたらどうなるの・・・?」

 

「彼らがほしい物を奪ってゆく、あと・・・、」

 

「あとっ!?」

 

「ちょっとやっかいな病気を媒介しているらしいから、なるべく飛び込まれないように・・・、」

 

アキの表情が変わった。

 

「この森、ダッシュで抜けようよっ!はやくはやくっ!」

 

再びアキは、猛ダッシュで坂を下り始めていた。

 

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「きょう、一番疲れたの、あの小さな黒い影だった・・・、」

 

「メマトイね、おれも嫌いだよ、あの虫。」

 

アキはバス停のベンチで、靴と靴下を脱いだ裸足をバタ足みたいに動かしながらペットボトルのミネラルウォーターを喉を鳴らしながら飲んでいる。

 

「ねえ、さっきさ、あの虫が病気を媒介しているって言ってたよね?その病気って・・・?」

 

「東洋眼虫症、」

 

「とうようがんちゅうしょう、がんちゅう、それってさ、」

 

「目に寄生虫を、」

 

「まってまってっ!!!こわっ、めっちゃ恐ろしいやつじゃんっ!大丈夫かな、きょう、わたし大丈夫だったかなっ!!!どんな寄生虫なの!?」

 

「線虫だと思う、たぶん。この間一緒に観た吸血鬼の海外ドラマあるでしょ、」

 

「えっ!!!ストレインでしょ!ちょっとまってよ、まさかあの、目にうようよ出てきちゃう細いミミズみたいなやつってことっ!」

 

「そうだね・・・、もし寄生されてたら、ははは・・・、」

 

「笑えないよっ!」

 

「現代の日本にそんなホラーな病気が蔓延してるなんて知らないよ〜っ!先に言ってよね、ストレインみたいな病気に感染するかもしれないけれど、山歩きに行きたいかってさっ!重要なことだよ!」

 

「ごめん、でもストレインみたいな病気じゃないよ・・・、あれは吸血鬼になっちゃうからさ。」

 

「目にミミズが湧くのも、同じようなものでしょっ!ねえ、きょうわたし、大丈夫かなあ・・・、なんちゃらアジア虫、目に入ってないかなあ・・・、こわいよ、」

 

「東洋眼虫ね・・・、たぶん大丈夫だよ。ただ、きょうのあの虫、メマトイに似てたけど、ちょっと違うような気がするんだよ。」

 

「違うって、どんなふうに?」

 

「おれが知ってるメマトイはあんな大きくないし、ハッカもまったく効いてなかったし・・・、もっと厄介な違う虫かなあ。」

 

「どっちにせよ、こわいよ、ねえジュンヤ、もしわたしがそのヘンテコアジア虫みたいなのに寄生されてて、目からミミズが湧き出したら、ちゃんと殺してよね・・・、わたし、吸血鬼になって、愛してる人を襲うの嫌だもの・・・。」

 

アキはそう言って、ぼくの顔をまじまじと見つめながら、少しだけ目に涙を浮かべていた。

 

「うん、わかったよ。じゃあ、同じようにおれが感染してたら、ちゃんと殺してよね。」

 

アキは無言のまま少し笑って、右手の親指をこちらに突き立てて、それから少しだけため息をついた。