ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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カーテンの隙間から見える白い羽のようなものは、あれはいったい日記。

ぼくの守護天使のひとりが、ある時こう言った。

 

「長く生きたくなんて、ないんだもん。どう生きるかなんて、わたしが決めることでしょ、そろそろ死にたいのよ、そんなこと、勝手にさせてほしいの。」

 

ぼくも、そう思う、大いにそう思う。

 

命を、その周辺のなんだらかんだらを、とんでもない、いやトンを遥かに超える重みとして押し付けるのは、たいていは宗教やら偽善的な社会だったりして、本質的に生きるということに関して、そういう半ば邪悪な力が、それをさ、生きるということを圧倒的に捻じ曲げていると、ぼくは思っている。

 

一日の中で、小さな虫たちを何匹も殺すことがある。小さな小さな虫は、指先で押し付けるだけで、藻屑と消える。少し大きな虫だって、指先だけでもたやすく殺せる。

 

ぼくはずっとそのことを、少しだけ疑問に思っている。いや子供の頃は、そんなこと疑問になんて思いもしなかったよ。毎日毎日、蟻を指で押しつぶしたり、足で踏み潰したり、あるいは多くの虫たちを殺しまくっていた。魚や鳥や、あるいは犬や猫とかをあえて殺したことはないけれど、でも、鳥や魚を捕まえて、その結果死んでしまったことはあるし、うん、よくわからないけれど。

 

何かを殺す理由は、たとえば小さな虫を殺す理由は、何なのかな?

 

突発的な快楽もあるかも知れないけれど、たぶん純粋に、不快だとか、うっとおしいとか、邪魔だとか、そういうことだよね。

 

人間が人間を殺す理由も、本質的にはたぶんそんなに変わらないと思う。

 

だからこの世界から、戦争はなくならない。相手が虫との戦争も、鳥との戦争も、獣との戦争も、もちろん人間同士の戦争も、ぜんぶ根本は同じだからだろうなあ。

 

なんの話だったかな、もうよくわからなくなったけれど。

 

守護天使に、ぼくはこう言った。

 

「ぼくも同じだよ、長く生きたいなんて思わないし、もうそろそろ十分だと思ってる。やるべきことは大方終えたよ。そしてそれは自分が決めることだ。でも、この世界にはいろんなことを言う奴らがいて、命は大切だとか、健康がどうとか、長生きがどうとかさ。そんなこと、クソのかけらさ。だから・・・、」

 

「だから・・・?」

 

「いや、その先を言い出したら、ぼくもクソのかけらとおなじになっちゃうから。」

 

「そうだよね、」

 

「うん。」

 

「私があなたを好きだなって思ってるところ、知ってる?」

 

「いや・・・、」

 

「すっごく悪い子なのに、それをなかなか表には出さないの、巧妙に隠してるの。」

 

「それは知ってるよ。」

 

「そうでしょうね、だから、その悪い子の部分をちゃんと制御してるの。悪いって言ったら失礼かもしれないね。なんだろう、例えれば、自分の中の混沌をさ、ある程度制御して生きてるの。ただ、そういう事柄って、なかなか完全になんておさえられないのよ。」

 

「うん・・・、それも知ってる。」

 

「私が、さっき、長く生きたくなんてないって言った時、あなたはなんだかすごく静かな笑みを浮かべたの。」

 

「そうだったかな・・・、」

 

「悪い子は、たいてい純粋なの。」

 

「それって、」

 

「まってまって、もう少しだけ聞いて、」

 

「うん、」

 

「あなたは悪い子で純粋だけれど、でも少し色が違うの。少しじゃないのかな、圧倒的に違う色を帯びてるのかもね、だからね、あなたを時々、真剣に護りたいって思うの。」