ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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アルジャーノンに花束を、たぶんそんな日記。

花束をもらう機会があって。

 

でもぼくは花束なんてもらうのが嫌いでさ。

 

いや本当に、真剣な意味があって手渡される花束ならもちろん、嫌ではないのだけれど、いわゆる形式的に花束でも渡しておけばいいだろうっていう、そういう花束が大嫌いで。

 

そんなものいらねえよ、と常々思っている。

 

だから、そういう類の花束をもらうことが想定される直前に、先に断ろうと思ったのだ。けれど、もらう前から花束を断るという行為に少し躊躇してしまった。もしかしたら、花束はぼくの手元に来ないかも知れないのに、「花束はいりませんから。」って言うことが、なんだか傲慢みたいでさ。

 

でもやはり断ればよかったと、すごく後悔している。

 

結局、適当な花束を手渡されて、ありがとうと言って、笑うしかなかった。

 

真剣な思いを込めて渡された花束はまったく枯れないのに、いいかげんな贈り物の花束はすぐに枯れちゃうんだよ、知ってる?

 

もらった花束、枯れちゃうのが嫌だからすいぶん丁寧に手を尽くしたけれど、一週間も経たずに枯れ果てちゃった。

 

それから花瓶に入れて枯れ果てたまま、部屋にしばらく置いてあった花束の下に、今日さ、見たことのない芋虫みたいなものがいた。

 

たぶんだけれど、花束の中にいたのだと思う。

 

枯れた花束を目にした一時間前まで、そんな虫はそこにはいなかった。

 

でもその虫は突然そこにいて、息を吹きかけても触ってもまったく動かなかったから、もう死んでいるんだと思った。枯れ果てた花束からついさっき出てきたことは明らかだけれど、そこで死んでしまったのだと思った。

 

虫と枯れ果てた花束の写真を撮った。

 

それから数時間が経った。

 

ふと枯れ果てた花束の下を見たら、虫がさっきとは違う方向を向いている気がした。

 

気のせいだと思った。そういう思い違いはありがちだもの。

 

それからしばらくして、また虫を見に行った。

 

また微妙に違う方向を向いている。

 

最初に撮っておいた写真を見た。

 

明らかに動いている。

 

じゃあ、生きてるんだ。わからないけれど、最初に見てから、六時間経っている。頭の方向が左右に少し動いているだけだけれど、死んでいたら動かないでしょ!

 

どうすればいいんだろうと、なかなか悩んだ。まあ、どうするもこうするもないけれど。

 

放って置いて明日の朝にそこからいなくなってたら、それはそれでちょっと怖いけれど、その虫を例えばティッシュで押しつぶして捨てることが、まったくもって出来ない自分がいて、すこし混乱する。

 

すごい勢いで動きまわっていたら、あっさり殺していたかも知れない。

 

そういう感覚って、いったいなんなのだろう。

 

きょうは、もうその虫には触れない。明日の朝いなくなっていても、ぼくの中でずいぶん納得できたことなので、たぶんあまり怖くないと思うから。

 

何時間もかけて頭部を少しだけ動かせるくらいの彼が、もし明日の朝、枯れ果てた花束の下からいなくなっていたのなら、それは驚くべきことだ。

 

と、ここでもう一度虫を見に行ったら、完全にモリモリ動き出していて、ギャフンと言ってしまった。

 

見た目完全に死んでたやん・・・、眠ってたのかなあ・・・、虫ってすごいなあ。

 

モリモリ動き出したから、丁重に部屋の外に出しました。

 

殺してはいないけれどね。