自己嫌悪、そして誰もいなくなったクリスティー日記。
例えばきみが苦しでいる時に、そしてその苦しみが自分だけではまったくどうにもならなかった時に、たぶんきみは誰かにその話をするかも知れない。話をして、その流れで助言を乞うこともあるだろうし、助けを求めることもあるだろう。
ぼくのいままでの経験も同じで、苦しい時に色んな人にいろんなことを話したことがある。助けを求めたこともある。
だたそれは、困ったときには誰かに相談しろというロジックを幼い頃から無駄に埋め込まれていた結果であって、本質的に誰かに困った話をすれば問題が解決するわけでは、まったくないし、助けを求めたところで、おおよそは何も変わらないまま、アホみたいに助けを求めただけの自分が取り残される。むしろ誰かに自分の悩みを打ち明けることで、大きな確率で、問題が悪化する場合さえある。
そんな無駄な時間を過ごすなら、自分でなんとかする。
ずいぶん長く生きてきたぼくの経験則では、悩みを解消するには、自分でどうにかこうにかする以外に、あがく以外に、道はない。それが本当のことだと思う。
誰かに頼っても道は見えてこない。だって誰かは誰かで、自分がいろいろ大変なのだ。
自分に置き換えればわかる。自分がめっちゃ大変な時に、大変だから助けてくれと言われても、フルパワーで助けられないんだよ。
それでも、なんだか、誰かのためにとか、助けるとか、言う人は多い。
助けられやしないでしょ。助けるなら、助けるって言うなら、全部まるっとすべてだよ。
誰かを助けるって、自分のすべてを擲つ行為に等しいんだと思うよ。だってそこに存在する力は、誰かの抱える負の力は、自分が抱えている負の力と同じような重さを持っていて、それは人ひとりが抱えるのに精一杯だと思う。だから誰かのそれを背負うなら、自分のその重さは、絶対に捨てなきゃならないじゃん。
それが出来る人なら、もしできるなら、それでもいいけれど。
でも、誰かに真剣に何かを相談した後の空虚感って、感じたことがないかな?ぼくは何度も何度もある。ぼくはバカだから、真摯に打ち明ければ何かが変わるのかとずっと思っていた。でも、基本的には何も変わりはしない、うん、話しただけじゃあ、変わりはしないんだよ。
でも多く人々は、話せば変わると思っているに違いない。
占いや人生相談に高額な金銭的対価が求められることを見てもさ、そしてそれでもたぶん、悩みを打ち明けるかわりに、どんなに誰かにお金を渡したところで、根本的に自分の苦しみなんて解決しやしないのさ。
日記の前置きには長すぎた。
「財布を落としてしまったっ!」と道端で見知らぬ老人に詰め寄られた。どうしたらいいのかと言われたが、ぼくにはどうしようも出来ない。老人は興奮していて、ぼくが質問をしても要領を得ない。
地元の人ではないようだった。何を聞いても、「わからないっ!」としか言わなかった。それじゃあ、ぼくだってまったくわからないんだよ。
挙句の果てに、その怒りの矛先はぼくに向けられているようだった。
正直に言おう、「あなたの巻き起こしたことだろう、あなたが問題を解決するために自分で動くべきで、ぼくにウダウダ話をしている場合ではないのだ。ましてやなぜ、怒鳴られなければならないのだ。ぼくにはどうしようもできない、あそこに交番があるから、そこに行ったらいい。いくら自分が苦しい立場に置かれていようと、最低限の礼儀をわきまえるべきだ。」と。
実際には何も言わなかったが、彼を助けることに幾分も力を使う気がしなかった。
それでも、助けるべきだったのかなって、ずいぶん時間が経ってから思った。
でもさ、ぼくは失礼な人が嫌いなんだよ。もし、助けてくれと言われれば、たぶん助けたはずだ。
いやどうかな、ぼくに出来ることが果たしてあったのかと思うと、いろんなことがよくわからない。
でも、ひとつだけやっぱり重要なことがある。
嫌いな人を助ける気遣いは、ぼくにはたぶん、まったくないのだ。そういう人間なのだ。
ずいぶん昔に、好きになった女の子が、井上陽水の『自己嫌悪』を時々口ずさんでいた。
自己嫌悪かあ・・・。
なんだか嫌な日記だなあ、まあ、それが日記ってものの本質さ。