ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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なぜなら、いま雨が降っていたから、日記

雨降る中をあえてランニングしたのは、ずいぶん久しぶりだった。

 

雨中のランニング、宇宙じゃないぜ、でも最後に走ったのはもう十年以上前じゃないかな。

 

十年も経つと少なからず体の様々な状態がその当時とは違っていてさ、あの頃は、季節はたぶん今と同じような夏と秋の谷間だった気がする、いや、よく覚えてはいないけれど。

 

けれどね、空気の中に水分が溢れていて、なんだか水の中を走っているような気がしたことは覚えている。純粋に心地よかった。夜の七時くらいだったかな。仕事を終えて帰ってきてから、かなり強い雨の中に走りに出た。

 

ぼくはその当時プールでも毎日泳いでいたんだけれど、そういう水中とは、それはまったく違う感覚なんだ。

 

そんな雨で錆びついた記憶のフレームを思い描きながら、雨降る世界に、きょう走りに出た。

 

でも、ただ苦しかった。寒くてビショビショで、体の中で灰色の何かが、割れたガラスみたいな何かが、細かく細かく肉を切り裂いた。

 

走った達成感はあったけれど、心地よさはなかった、なんだかガラクタの氷のような痛みが残った。

 

過去の記憶と、現実の今の時間と、それとはたぶん別軸で動いている、心の時。

 

そういうもののバランスを崩して、誰かは立ち止まり、右往左往し、時には突っ伏し、そして、あるいは自らの首に刃を突き刺して、血を吹き出す。死ぬかもしれない。

 

その選択は、誰かがその良し悪しを決められることじゃない。

 

それは、マイチョイス。

 

きみのチョイスではない、だれかのチョイスでもない。

 

ぼくが選んだことだ。

 

それでいい。それ以上のことは、ない。自分が、自ら選んだこと以上の価値なんてものは、どこにも存在しない。

 

少なくとも自分の中には、そんなもの存在するはずがない。

 

これが、日記だぜ。

 

雨に濡れ、雨でびしょ濡れになりながら走る意味は、意味はない。違うんだよ、雨は関係ないんだ、ぼくは、きょうその時に走りたかったんだ。けれど雨が降っていた。

 

雨の中を走りたいわけじゃない。ただ雨の中を走ることで、まったく別の景色が見えることがある。

 

だからぼくはきょう、あえて、いやあえてじゃないか、無意識になにかの本能としてそれを見に行ったんじゃないのか。

 

誰かに言いたかった。

 

「雨の中に走りに出たいわけじゃなかった、たぶん、ただ走りたいだけだった。けれど、雨が降っていたんだ。」

 

誰かに、その言葉が届けばいいな。