ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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二百年後にワンダーウーマンと朝食を、ってジャスティス日記。

平等という言葉があって、あるいはそういうシチュエーションを求められる機会はアホみたいに多くて。そして、平等なんてことの意味も、言葉の意味すらもまったくわかっていないアホどもから、そういうことを無駄に畳み掛けられることが、この数年しばしばあった。いや数年どころか、よく考えたら何十年もずっとかな。

 

そんなこと言われなくても、こちとらなあっ!

 

なんどもなんども、自分と対話した。

 

平等。

 

はたして、それを本当に成しているかと問われれば、たぶん微塵もエスとは答えがたい自分がいる。

 

だから、誰かに理不尽な平等を説くほど、ぼくはまだ狂っちゃいない。

 

平等を成している人なんて、たぶん皆無だ。

 

そんなこと無理だから。

 

誰かを、誰かというか多くの事柄について、差別しようと思う気持ちは、あまりないと自覚している。けれど無意識に、自覚を超えたレベルで、いや自覚内でもさ、何かを差別して蔑んでいる自分がいる。そしてそのことを何度も何度も繰り返し考え続けて、吐き気がする。

 

平等なんて軽々しく口にできる奴らに限って、圧倒的な差別主義で生きていることを、さんざん目の当たりにしてきた。

 

閑話休題

 

今日、映画を二本観た。

 

ザック・スナイダーの『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(Batman v Superman: Dawn of Justice)、そして、グザヴィエ・ドランの『Mommy/マミー』(Mommy)。

 

アメコミの映画化が盛んな昨今のハリウッド、ぼくは基本的にはあまりアメコミ映画は観ない。ただ、スーパーマンバットマンは随分前から映画化されていて、クリストファー・リーヴマイケル・キートン、彼らが演じたクラーク・ケントブルース・ウェイン、その影響で二人が絡んだ作品、二人っていうのはスーパーマンバットマンね、それは観がちである。

 

バットマン vs スーパーマンでビビったのが、バットマンでもスーパーマンでもなく、ワンダーウーマンが強すぎたこと。ぼくの知っているワンダーウーマンはリンダ・カーターが演じてるやつで、あんなすげえ強くなかった気がする。

 

ガル・ガドットはかっこいいけどさ。

 

マミーは、ちょっと自分に当てはめて観がちだった。映画とはずいぶん違うが、異常なほど過保護で何でもかんでも自分の思い通りに子供を操作したがる母親の存在、映画よりももっともっと激しくぼくはそういう環境で育って、それからの逃避と、それに対する憎悪みたいな感覚は、いまでも消えはしない。映画は終わるけれど、人生はまだ、終わらないのだ。

 

あと二日で、ぼくは少し生き方を変える。

 

変えると言ってもごくごく、ごくごく、ぼくの中でのことで、ただ、そのことで誰かと祝杯をあげたい気分ではある。でも、今ぼくの周囲には、誰もいない。

 

二日後、ちょっといいワインを開けて、ちょっといい料理で、静かに過ごす夜に、ぼくがこのWEBLOGで語るようなジャンクでクソで楽しい話を交わせる誰かが、ぼくのもとを訪れることを、ちょっと期待する。

 

期待しているだけじゃ、何も起こらないから、無神論者だけれど、何かしら神のようなものに、適当に祈るさ。

 

頼むぜ、何かしらの超絶的な存在よ、あるいは、さまよう運命よ。

 

「誰かと酒が飲みたい」、それがぼくのささやかな祈りだ。