ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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世界の片隅でBullshitと叫ぶ、カリフォルニア猫又日記。

少し前の日記に書いたこと。近所の公園に「猫に餌を与えるな」という主旨の張り紙がバリバリと張り巡らされた。

 

ただそこに少し気になることがあった。張り紙の見出しは、「猫さんに餌をあげないでくださいね。」みたいなものだった。

 

猫さん。

 

猫さん。なぜ猫に「さん」を付ける必要があるのかが、かなり怪訝だったし、なんだか腹立たしくもあった。だって書いてある内容はかなり残酷でさ、単に「餌をやるなっ!」ってことだけなのに。公園が汚れるから、管理が大変だから、餌をやるな、飢えるなら勝手に飢えさせろ、「死ねっ」、という、極論はそんな内容だった。なのに、嫌な感じで優しく書かれていた。

 

じゃあもっと卑劣な文面にしたらいいのだ。

 

確かにその公園に野良猫はいるが、いると言ってもぼくが確認できる数で言えば、三匹か四匹。その公園を毎日のように通り過ぎるぼくの推測で、たぶんその範囲を大きく外れないと思う。

 

公園の規模からすれば、少ないくらいだと思う。

 

その公園にはキツネやタヌキもうろついている。動物は猫だけじゃない。公園で見かける糞は、猫じゃない野生動物と、犬の散歩中に糞を始末しない奴が放置した犬の糞と、あとは人糞だとぼくは判断している。人がしてるの何度も見かけたし・・・、公園管理者の制服を着た人間が真昼にタチションベンをしているのも見たことあるし、けれど、公園が汚れる原因の対象は、猫さん。

 

張り紙がなされても、野良猫に餌を与える行為は減らなかったようだ。以前にも日記で書いたのだが、餌の与え方にも問題はあった。あげっぱなしの大量の餌は腐敗し、虫が湧いて悪臭を放っていた。時折、餌を与えながら野良猫と触れ合う老人や中年の男性を見かけた。たしかぼくは過去の日記で、餌を与えることに対しての批判を書いたはずだ。もしその猫のことを大切に思うのなら、家に連れて帰るべきだと。家に連れて帰って、たくさんごはんを食べさせてあげたらいい、それが責任だと。命をまもる責任を、ぜんぶまるっと、抱えるべきだと。それができないなら、安易に野良猫に餌なんか与えて、一時の心の快楽を得るべきではないと。

 

ある日、張り紙の内容が変わっていた。

 

「猫に餌を与えるな。」

 

猫さん、ではなくなっていた。強い警告になっていた。

 

もうひとつ、猫に餌を与えることで、「猫たちが嫌われ者になる」というような内容が書かれていた。

 

おそらく誰かが、「猫に餌をあたえさせるな!」「臭い!」「虫が湧く!」と、つよく苦情を出したのだろう。

 

ただ強い違和感があった。最初からそう書けばいい。なぜ最初は、「猫さんに餌を与えないでね。」みたいなことにしたのかが、ここがね、書いている奴ら、つまりは管理統括の嫌なところだ。

 

そして大きな変化がもう一つあった。その張り紙の場所に毎日毎日必ずいる二匹の猫の姿が消えた。

 

それから数ヶ月が過ぎる。その二匹の猫の姿が、張り紙の内容が更新されるタイミングで、一切消え去った。

 

たぶん、殺されたんだ。

 

ぼくは、そう思った。

 

もしぼくと同じようなシチュエーションにいる人なら、そう思うはずだ。

 

それまでほとんど毎日、同じ時間に、その場所にいる二匹の猫が、張り紙の内容が更新されたタイミングで姿を消し、その後、何ヶ月も姿を現さないなんて、異常なことだと思う。

 

あるいは心優しい救世主が現れ、「こんなクソ公園にいたら殺されちゃうから、ウチおいで。」ってさ、いまは楽園にいるのかもしれないけれど。

 

でもたぶん、直接的であれ、間接的であれ、殺されたんじゃないのかと、ぼくは強く思う。

 

まったく、クソみたいな世界だ。