ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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ココロのボス日記。

このWEBLOGをほとんど書かなくなったあの日からずいぶん時間が経ち、その間にぼくは、毎日湖ばかり見ていた。

 

クソみたいな日々を捻り潰しながら、毎日、毎日、

 

無言のまま、あるいは何かをひとりでつぶやきながら、時には歌を歌いながら、いったいあの湖を何度眺めたのだろうか。

 

ぼくと同じように、湖だってその時々で様相をかえる。無言のときもあるし、つぶやいていることもあるし、たぶん歌を歌っていることもある。いったい湖は何度、ぼくのことに気が付いたのだろう。

 

ほぼ一年半、一日に朝夕、二度見たとして、計算がよくわかんないけれど、たくさん。

えっと、たぶん適当に見積もっても、1095回。

 

1095回!?

 

そんなことを思いながらいま、キーボードを打っていて、少しだけ体や心の節々に痛みが走る。

 

湖には対岸があって、つまり向こう側が見えるんだ。もちろん天候によって向こう側が霞んで見えない日もある。だけれど、ぼくはその湖を歩いて一周したことがあるから、歩いていける場所に向こう側があることを知っている。

 

あの日、歩いて湖の向こう側にたどりつた時に、ぼくが歩き出した場所、始まりの向こう側は煙っていて見えなかったから、だから「あそこまで帰れる気がしねえ・・・。」と個人的な日記に書き記したことを覚えている。

 

けれどぼくは、帰ってきた。足をボロボロにしながら、帰ってきた。

 

この湖がなければ、ぼくはもっとひどい一年半を過ごしていたに違いない。ただ、その限りある水面に放ったぼくのいろんなものは、時々打ち寄せる波とともに帰ってくる。

 

けっこうすぐに帰ってくる。

 

広大な海みたいに、遥か彼方には消え失せない。

 

もちろん海にだって限りはあるけれど、たぶん海に解き放った思いは、ぼくが生きているうちには、帰ってはこないだろう。

 

だた小さな湖では、いくらそこに何か捨て去りたい思いを吐き出したとしても、ほんとうに一週間後くらいに、再び足元の砂浜にそのぼくの思いが転げ落ちている。

 

あまり形は変えずに、ただ少し汚れて、小さな砂浜に、腐った魚の死体やなんかと一緒に打ち上がっている。

 

そういうことが、ぼくを時々混乱させる。

 

と、今日の日記は、ここからはじまる。

 

昼下がり、とある飲食店の入り口で猫が寝ているなあと思いながら歩いていたら、その猫は死んでいた。車に轢かれた猫が死んでいるのを見たことはたくさんあるが、その場所は車道には面していないし、死因はわからないけれど、外傷のないままそこでなんだか下手な落書きみたいな姿勢で、死んでいた。口や他の穴から、血ではなく透明な体液みたいなものが流れ出ていた。

 

おかしな状態の死体だった。あの場所で自然に死んだにしては、いろいろ奇妙な気がした。

 

いま、スーパーの見切り品で30円で売っていたメキシコ産のバナナを昨日買ったバゲットの上にのせて、その上にチーズをのせて焼いたやつを食べながら、そしてワインを飲みながら、この日記を書いている。

 

ついさっきまで、ずいぶん久しぶりに『ウォーキング・デッド』のシーズン2を観返していた。

 

「死」ってものは、とんでもなく身近にある当たり前のものなのに、多くの人々は大いにそれを特別扱いする。

 

今の時期、家のベランダなんかセミの死体だらけだよ。公園も道端もセミの死体だらけだよ。でもそれについては、誰も何も言わない。

 

昨日、ベランダのセミの死体を片付けていて、一匹だけまだ生きていて暴れだしたのでそのままにしておいた。翌日の今日になってもう一度見てみたら、羽だけを残して死体はなくなっていた。

 

そいうこと、ちょっとこわい。鳥が食べたのだろうか?羽だけ残して?

 

日々ってさ、細かいことを考え出すと、たぶん頭が狂ってしまうほど意味不明なことが山積みでさ、たぶんね、そういうことどうでもいいと思ってる人が多すぎるんだと思うけど、ぼくは残念ながら、意味不明なことを考えながら、ちょっと狂っててもいいから過ごしたい。

 

そんでね、50歳くらいで、謎の死を遂げたい。

 

いまからその謎のプロットを考えつつ、クソジャンク赤ワインを大量に飲んで、そのまま死にますのココロ。