ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

follow us in feedly

モンキーモンキー、日記。

ふと、久しぶりにiPhoneの写真アルバムを開くと、iPhoneは勝手に、本当に勝手に、二年前とか五年前の写真で音楽付きアルバムなんかを作成していて、ぼくに見せつけてきた。

 

そんなことはわかってるよ、その頃はとんでもなく満たされていて、ぼくはパラダイスにいたのさ。

 

でも、iPhone、いまのぼくは地獄にいるんだよ。そんなことも知らないのか?

 

毎日毎日、ぼくのケツのポケットとか、ぼくの手のひらの中とかにいて、ずっとぼくと接しているのに、今ぼくが地獄にいることもわからないのか、知らないのか。そんなことにも気が付かないのか。それなのに、なんで、もう腐り果てた過去の楽園を、ぼくにわざわざ見せつけるようなことをするんだ。

 

それとも知っていて、わざとそんなことをしているのか。

 

この二年、あの頃のぼくと今のぼくは、どんな風に変わってしまったのだろう。

 

変えたいと思うことはまったく変えられないのに、それとは違う別のたくさんのことが、あっけなく、どんどん、どんどんどんどん、変貌していってしまう。そしてたぶんそれを止めることはできない。けれど、変えたいと切に願うことだけは、まったく変わることがないし、自分の力だけではまったく変わらない、変えられもしない。

 

毎朝、iPhoneのアラームで、心臓を握りつぶされるみたいにして、ギャッと叫んで目を覚ます。

 

もっともっと眠っていたいのに、いろんな夢の続きがもぎ取られるようにして、目を覚ます日々がずっと続いている。

 

なんで決まった時間に起きなきゃいけないんだろう?

なんでもっと、好きなだけ眠っていちゃいけないんだろう?

 

どこかの誰かは言う。

「生きている意味がわからない。」

 

うん、わからないよ、生きていることとか、死ぬこととか、そこには大して意味なんかないから、よくわからないんだと思うよ。

 

そして、よくわからないままで、いいんだと思う。

 

ただ、そこにさ、よくわからない生きている時間に、自分以外の何者かが意味付けを無理強いして、ぼくの「生」とか「死」とかに介入してくるから、苦しむ羽目になる。なんだかわけがわからなくなる。

 

今日、iPhoneの写真アルバムを開くと、二年前とか五年前の写真を勝手に美しい思い出みたいにして、見せつけられた。

 

そのことに、少なからず悪意を感じた。

 

まったく必要のないことが日常を侵食してゆき、本当に必要なもの、本当に求めるべきものは奪われて消されてゆく。

 

眠っている間に見る「夢」と呼ばれる何かしらの体験が、大抵はクライマックスをむかえる直前でもぎ取られるのは、何かしらの支配的な力の介在に違いないと信じて止まない。

 

夢に出てくる奇妙な「猿の面」をかぶった男が、その鍵を握っている。