ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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デス日記。

毎日見かける三匹の猫の行動パターンが、かなり複雑でまったく読めない今日このごろ。

 

三匹の子豚くらいわかりやすければいいんだけれど、いや、何がいいんだかわからないな、まあそれはいいや。

 

その他にプラス一匹、念能力の範囲がとんでもなく広くてまったく近付けない猫が、いる。その猫に関しては、ぼくでさえ名前も付けられていない。そういう能力を持っているのだと思う。

 

けれどその猫が、とある日に、老婆から餌をもらっている場面を目撃した。その老婆の前では念能力を発動していないようだった。あるいはその老婆が、その猫の能力を遥かに凌駕する手練なのか。

 

でもたぶん、餌だと思う。

 

「餌か・・・、」

 

なんだか少し悲しくなった。

 

「やっぱり、餌か、食欲には勝てないのか、」

 

ゾンビ映画を観ているとさ、そこに登場するゾンビもそうなんだけれど、人間も、やっぱり食べることに執着している。食料を確保するために人間同士が争う時間が、ゾンビ映画ではやたらと長い。もはやゾンビが人を襲うとか喰うとかじゃくて、人間が食料を確保するために殺し合いをしていることを、大抵は描いている。

 

ロメロの映画でも、スーパーマーケットは楽園だしな。

 

ゾンビ映画というジャンルの作品で、純粋にゾンビ自体に焦点を絞ったものはかなり少ないと思う。大抵は、ゾンビというきっかけで如何に人間社会が狂っているのかということが露呈し、そして人間が如何に恐ろしい生き物なのかということが暴かれる、そういうことが描かれている。

 

宗教的な意味合いも強いんだと思う。

 

死者が墓から蘇る日。そして地獄と、楽園と。

 

ウォーキング・デッド』を観ていて思ったんだけれど、だいぶ序盤からゾンビとかどうでもいい存在だよね。病んでいる人間のいざこざの話が延々続く。歩く死者は日常になってくる。危険は危険だけれど、叩き殺せる。ちょっと危ない害虫的なことになっている。全部観てないから、ちゃんとは知らないけれどさ。

 

台風やら大雪やらってハザードもいいけれど、そろそろゾンビっていうハザードが、日本でも勃発すればいいのに。

 

日本は高濃度の放射能を有耶無耶にもみ消すくらいだから、アホな政府がギャフンと言うのは、そろそろゾンビか、リアルゴジラか、あるいは氷河期か小惑星激突だろうな。

 

まあ、バカなのは結局国民なんだけどね。

 

そんなこんなで、今日の日記DEATH.