ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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スコッチピローではうまく眠れないから、キャッスルをロストするって日記。

誰かと言葉を交わす時間が減ると、誰かとはつまりたぶん人間で、言葉を交わす時間というのは、つまりたぶん自分が、頭の中を駆け巡る言葉を声に出して、誰かという対象があったうえで声に出して、自分の声という音を伴って何かしらの意思疎通を試みている時間なのかな、それを俗に会話というのだろうけれど、そういうことを大方やめてしまった時、いったい自分にどんな変化が巻き起こるのだろう。

 

と、ずいぶん昔にぼんやり考えたことがある。

 

誰とも話をしない時間が圧倒的に増えると、どんな風になるんだろうなあって。

 

この二年弱ほど、ぼくはほとんど誰とも会話を交わしていない。

 

会話の定義にもよる。会話というものが単なる義務的な発声ではなく、ある程度親密なコミュニケーションというものに、手をつないだり肌に触れ合ったり、純粋に心を通い合わせたりするようなことに紐付くのものであるのなら、ぼくは会話を交わしてはいない。

 

人間に向かって喋ってはいる。ただそれは、仕方なく最低限度の言葉を絞り出しているだけで、果たして会話と呼べるのかどうか。

 

きょう、買い物を終えて近所の雑木林を歩いていると、木々の中から突然50代くらいのおっさんが飛び出してきた。

 

「すいませんっ!すいませんっ!」

 

強い関西訛りがあったので、地元民ではないようだった。

 

「はい、なんですか?」

 

「お城に行きますかっ!?お城に、お城に行きますかっ!!」

 

とんでもない慌てっぷりだった。慌てっぷり度を数値化するなら、2367くらいだった。

 

今住んでいる地域には、観光地になっている城がある。ただぼくは地元民なので、今から城に行く予定はない。だから、

 

「いや・・・、城には行きませんが。」

 

「ああ、すいませんっ!すいませんっ!」

 

男性はすごい速さで走り去っていったので、何も言葉を返せないまま、ぼくはそのまま振り返らずにあるき出したのだが、その直後に、いろいろな恐怖要素が頭に浮かんだ。

 

まずその男性が、ズボンをあげながら駆け寄ってきたこと。何らかの理由でズボンを膝下まで下ろしていて、それを必死であげながら駆け寄ってきているように見えたこと。

 

次に、質問の意味がよくわからなかったこと。「お城にいきますかっ!?」としか言わなかった。その"お城"だって、ぼくは観光地の城のことだと勝手に想像したけれど、文脈があまりに無いので、いったいなんのことを言ってるのかもわからない。

 

時間差をかなり置いてから、ゾッとした。

 

ちなみに、ぼくのすぐ後ろを若い女性が歩いていたはずだった。その男性が飛び出してくる直前に、ぼくが彼女を歩いて追い越したからだ。けれど、その男性はおそらく彼女には声を掛けていない。

 

「お城に行きますかっ!?」という声は背後から聞こえてはこなかったからだ。

 

そして、その一本道をしばらくしてから振り返ったのだけれど、彼女はいなかった。しばらく立ち止まっていたのだけれど、彼女が歩いてくることはなかった。一本道だ、こちらに向けて歩いていたはずなので、もと来た道を逆戻りしたとしか考えられない。

 

日々の何気ない出来事って、細かい状況を考えてみると、かなり怖い。

 

ぼくは、この頃誰とも会話を交わしていないので、声がうまく出なくなっている。けれど、「お城に行きますかっ!?」と問われた際の、「城には行きませんが。」という声は、ここ数ヶ月の中でもかなりクリアだった。

 

もしや、あれは会話だったのかな?と思った。

 

自分で書いていてもなかなか意味不明なクソ日記だが、たぶん重要なことがたくさん含まれているので、このクソ日記を読んでいるきみはエライ。

 

ちなみに、ぼくの声はかっこいいらしい。

 

大学の時には、声かっこいい王に密かに選ばれていたらしいし、つい最近、スイス人の美少女に「声かっこいいね。」って言われたからさ。

 

そんなせっかくのかっこいい声が泣くので、もっと誰かと会話をしなきゃ。

 

ジョニーウォーカーの空瓶を枕にして、そろそろ眠り申候。