ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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天国とか地獄とか、狭間日記。

今日観た映画、スティーヴン・ソマーズStephen Sommers)監督の『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主(Odd Thomas)』、そして、リュック・ベッソン(Luc Paul Maurice Besson)監督の『アンジェラ(Angel-A)』。

 

ずっと雨が降っていて、一日中家の中で過ごした。外にまったく出なかった日は、もう何年ぶりじゃないのかと思う。でも忘れているだけで、そんな日も頻繁にあるのかもしれない。いろんなことは忘れてしまう。どうでもいいけれど。

 

オッド・トーマスは思っていたよりよかったけれど、アンジェラは思っていたよりだいぶつまらなかった。

 

リュック・ベッソンはどこに向かおうとしているのか。

 

ジャンクな娯楽作品を作るのなら、ジャンクでもいいから『ニキータ』と『レオン』の後日談を作ればいいのになあ。

 

アメリのジャメル・ドゥブーズはすごく好きだったけれど、アンジェラの彼はなんだかまったく好きになれなかった、主演なのに。リー・ラスムッセンもまったく好きになれなかった。

 

そういうことが映画の本質なんだろうと思う。

 

学生時代に、個人制作の短い映画に何本か、役者として出演した。自殺請負業の男役と、道端で隙間をさまよい電信柱に挟まる謎の男役、どちらも地味に難しい役だった。他にもいろいろ。

 

過去のことを思い出すと、少し混乱する。それは誰しもそうなんじゃないのかと勝手に思うが、たぶん多くの人は混乱なんかしないのかもしれない。

 

オッド・トーマスの中で、死者の霊は言葉を発せないという表現があった。原作は読んでいないから知らないけれど、映画の中ではそうだった。そして死者の霊は直接的には生者に触れることは出来ない。ポルターガイスト的な物質を利用した接触は出来るらしいが・・・。

 

本当にそんな世界があるのだろうか。コナン・ドイルが傾倒したような、死後の世界があるのだろうか。オッド・トーマスの劇中で、いまの世界はブートキャンプみたいなものだっていうセリフがあった。もし本当にそうなら、オッドも言っていたが、ブートキャンプにしては過酷だなあ。

 

きょうは、今日観た映画を中心にした平凡な日記だ。

 

天使やら悪魔やら、死んだ人間の霊やら、呼び方は人間が勝手に付けているけれど、そういうものがたぶん、ウヨウヨしているような気はする。

 

だたきっとそれは、今で言うAIみたいなもので、太古の昔から人間が創り出しているんじゃないのか。自分たちの代用品としての精密で邪悪な人形を、ある種の人々は作りたくて仕方がなくて、それを現実に創り出している。

 

それは創造主の手を離れて、暴走を始める。いや、暴走だと言い張るのは創造主で、彼らを創り出したことが、そもそも暴走なのだ。

 

なにか映画をもう一本観たいが、これから少し酒を飲みたいので、映画は明日観ることにする。

 

孤独と、無音と、キーボードを打つ両手に浮き上がった静脈。

 

生きている意味を考えることは、多少の気休めにはなるさ。