ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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ハリネズミの微笑み

午前七時過ぎ、ぼくがベッドの中で微睡んでいると、ベッドの脇のサイドテーブルに置いてあるiPhoneにメッセージが送られてきた。

 

昨日は、ごめん。

 

ぼくはベッドの中でしばらく、ただ一言だけ送られてきたその言葉を何度と無く読み返してから、起き上がった。

 

歯を念入りに磨いた後に冷蔵庫にあるもので簡単な朝食を済ませ、使い終えた食器を洗い、その後昨日の夜から決めていた通りバスルームを徹底的に掃除した。

 

そこまでしてしまってから、ふと窓の外の晴れた空を見上げると、もう何もする気が起きなくなって、しばらくぼんやりと窓の外を眺めながら体の動きを止めた。正確に言えば、身体の動きが止まってしまって、動かすことが出来なかった。

 

「今は会いたくないの。だから電話もメールもしてこないで。今日はもう帰って。」

 

昨日、彼女は泣きながらそう言って、ぼくに手を振った。

 

「わかった、しばらくは電話もメールもしないよ、約束する。だけどもしきみが気が向いたのなら、なにかメーッセージを送ってほしい。」

 

彼女は目からボロボロと涙を流しながらうなずいた。

 

「もしきみがメッセージをくれたなら、そのメッセージに短い返事をおくることはしてもいい?」

 

彼女は少し間をおいてから、再びうなずいた。涙は依然として彼女の目の奥からとめどなく流れ出していた。

 

今までに何度と無く、ぼくが彼女との約束を破ってきたことの着地点のような深い穴が、そこにポッカリと空いていることがその時初めてわかった気がした。

 

ぼくは、あえて約束を破ろうとして破り続けてきたわけではない。ただ、瞬間的な選択のミスや、ちょっとした勢いや、あるいは衝動的な欲求みたいなものが、いつも邪魔をして、その連続性が結局は彼女の心を壊し続けることになっていた。

 

ぼくは彼女のメッセージに対して、言葉ではなくハリネズミの絵文字だけを返信した。その絵文字に大きな意味があるわけではなかったし、なにか刺立ったものを表現したいわけでもなかった。ただ絵文字のハリネズミが穏やかに微笑んでいたので、無意識にその笑顔だけを選んだのかも知れない。

 

その時本当は、メッセージに長い長い言葉を綴りたい欲求に駆られていた。すぐにでも電話を掛けたい衝動に揺り動かされていた。けれどそれではまた、ぼくは彼女との約束を破ることになってしまう。

 

もうこれ以上、約束を破るわけにはいかなかった。

 

その時ぼくはハリネズミを見つめながら頭の中で、誰にも届かないメーラーを使って、短い手紙を書いていた。

 

おはよう。

 

きょうは空が気持ちよく晴れ上がっているけれど、ぼくはまだ一歩も外には出ていません。きみの頭の上に広がる空は、青く晴れ上がっていますか?

 

きみにひどいメッセージを送ってしまったあの夜、ぼくは死のうと思っていました。でも結局死ぬことは出来ず、その自らの暗い心の残骸の部分だけを言葉としてきみに送ってしまうことになりました。そのことをぼくは悔いています。いままでも、ぼくがきみに同じようなことを繰り返してきたこともわかっていて、そのすべてをぼくは悔いています。

 

過ぎてしまったことは今更変えることは出来ないから、無意味な言い訳にしかならないけれど。

 

ただぼくはきみのことを深く愛していて、それ以上のものをこの世界で今見つけることは出来ません。たぶん今後の未来にも。

 

ハリネズミが何を見て微笑んでいるのかはわかりません。あるいはその視線の先にはなにもないのかも知れません。

 

なにもないけれど、穏やかに微笑むことが出来る一日を。

 

月白貉