ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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タトゥー 前編

『これは宝物の場所を印した地図なんだよ。』

 

カリンは目を閉じてシャワーの水を頭から浴びながら、小さな声でそう言った。浴槽の湯に体を半分沈め、湯気に煙るバスルームの天井を見上げていたぼくは彼女の方に目をやった。

 

「母さんが、いつも幼いわたしにそう言ってた。別にわたしが聞くわけじゃないのに。この模様はなんなの?って私がしつこく聞くわけじゃないのに、母さんはなにかと私のこの模様の説明をしたがったの。」

 

ぼくは黙って彼女の裸をしばらく見つめていた。

 

 

 

 

カリンの右上腕部には、広範囲に渡って不思議な模様があった。ぼくがそれを知ったのは、彼女と初めて裸で抱き合った数年前の晩夏の午後だった。その日は朝からずっと曇っていて、晴れた日でも薄暗いぼくの部屋は忘れ去られた廃墟のようにいつにもまして暗い空間と化していた。

 

ベッドの上のぼくの横で、ぼくに背を向けて静かな寝息を立てているカリンの腕に、なにか火傷の跡がシミになったような茶色い模様があることにぼくは気が付き、次の瞬間、無意識にその腕に、その腕の模様の部分に静かに触れていた。

 

「あっ、ごめん、起こしたかな?」

 

カリンは怯えたように小さくビクンと体を震わせたあと、芋虫みたいに体全体をモゾモゾと動かしながらぼくの方を向いて、ぼくの唇にとても長いキスをした。

 

「ううん、眠ってなかったから大丈夫。眠っているフリをしてただけ。」

 

カリンは確かに眠っていた。ぼくには、誰かが本当に眠っているのか、それとも眠っているフリをしてるのかをかなり正確に見分けることができる自信がある。だから彼女が言った、眠っているフリをしていたという言葉は、なぜかは知らないが、ぼくに嘘を言っているのだと思った。けれどもしかしたら、ぼくの能力を超えるものが彼女にはあり、彼女はぼくにばれないように眠ったフリが出来るのかも知れない。

 

「そっか、起こしたかと思って。」

 

「宝物の場所を印した地図。」

 

「えっ?」

 

「きみがいま触ってる場所。」

 

「ああ、これか、これ地図なんだ。」

 

彼女はふざけたみたいな奇妙な笑みを浮かべてもう一度ぼくの唇に短いキスをした。

 

「宝の地図、そんなわけ無いじゃん。」

 

「見ようによっては地図にも見えるけど、」

 

ぼくは改めてその腕に広がる模様の仔細に目を向けた。

 

「見えるけど、なに?」

 

「これだけじゃ一体どこの地図なのかわかんないし、この地図が印す宝を見つけるのは相当大変そうに思う。」

 

「地図なんて、ぜんぶ、そんなものじゃない。」

 

カリンは自分の腕の模様をじっと見つめている。

 

「まあね・・・、」

 

「生まれた時からずっとあるの。自分で気が付いたのがいつだったか、それはもう忘れちゃった。自分にはずっとあるものだし、頻繁に見るような場所でもないし、わたし子供の頃、鏡ってものが嫌いだったから自分の体の色んな場所をまじまじと見ることがなかったし、たぶんこの模様のことは、ずいぶん大きくなってから誰かに言われて気付いたんじゃなかったかな。えっと、そう、たしか小学生の時に、クラスの誰かに言われたような気がする。ねえカリン、これは何?って。だから、その日に家に帰ってから母さんに聞いたの。その子がわたしに聞いたのと同じように、これは何って。そしたらさ。」

 

「宝の地図だよって?」

 

「その時は、なんだかよくわからなくて、あはは、唐突じゃない、宝の地図だなんてさ、意味不明だよね。だからさ、なんの実感もなくて、それよりわたしは夕方から始まるアニメのほうが大切で、それ以来、わたしは一度も母さんにこれは何?って聞いたことなんかないんだけれど、いや、おかしな答えだったから、聞くのをやめたのかも。でも、その日からなぜか頻繁に、ことあるごとに母さんは、わたしの模様の意味を話したがったの。」

 

部屋の外から二匹の、たぶん二匹の猫が争う激しい声が聞こえ、けれどすぐにまた静寂に戻った。

 

「幼いカリンがその模様のことを友だちに言われて、傷ついているんだって、思ったんじゃないのかな、お母さんは。」

 

「さあ、どうなのかな。でも子供ってさ、大人が思うほど無知で無垢じゃないんだよ。子供はいろんなことを知ってるし、いろんなことに感づいてるの。ただ口に出しては言わないだけ。嘘を言ってるの。子供っぽく振る舞うためにたくさんの嘘をつくことがあるの。」

 

「うん。」

 

「あの時、誰かに言われた模様のことで、わたしはたぶん傷付いたりしてなかったけど、あとからさ、なんだか、母さんに適当な子供向けの説明をされたことに少し腹がたったの。その時の気持ちはよく覚えてる。そしてね、そのあと何度も何度もその模様のことを母さんに言われるから、反対に少し怖くなってきて。」

 

「そうなんだ。うん、なんだかそれはわかるような気がする。ほんとうはもっとなにか別な意味がある模様なのに、お母さんはそれを必死に隠すように、宝の地図だよって子供じみたことを言い続ける、ってこと、なのかな?」

 

「そうね、そんな感じ。ねえ、きみはタトゥーってしたことある?」

 

ぼくは一瞬だけ天井に目を向け、再びカリンの顔を覗き込んだ。

 

「もしかして、さっきまで見ていたおれの体のどこかに、タトゥーを消した跡を見つけちゃった?」

 

カリンはぼくの鼻先をつまんで笑った。

 

「違うよ、単純にタトゥーの話をしたかっただけだよ。」

 

「残念ながらしたことはないよ、正直ちょっとしてみようかと思ったことはあるけど。でもさ、もし悩みに悩んで体に刻んだ模様なり絵柄があとから気に入らなくなったら嫌だなあとか思っちゃって、それから、したいと思う気持ちは徐々になくなって、今に至る。そういうことってあるじゃん、すっごく気に入って買ったTシャツが、あとからそんなに好きでもなくなってさ、ほとんど着なくなっちゃって、買ったことすら後悔すること、ないかな?そういうことがおれにはあるんだ。Tシャツならそれでも別にいい、嫌になったら捨てちゃってもいいし、誰かにあげちゃってもいい、でもタトゥーはなかなかさ・・・、そういうわけにはいかないかもなあ、って思って。」

 

「そっか。」

 

「タトゥーっぽい雰囲気を味わうために皮膚に貼るシールのタトゥーをしてたことはあるよ。両手の甲に蜘蛛のタトゥーシールを貼って毎日職場でキーボードを打ってた時期がある。」

 

「なにか言われた?」

 

「坂崎くん、それって・・・、タトゥー・・・?って、チームのプロデューサーにちょっとビビりながら言われた。」

 

「それで、なんて答えたの?」

 

カリンは楽しそうな表情を浮かべながら、再びぼくとは反対方向に体を回転させた。

 

「はい、そうです、って答えといたよ。あまり好きな人じゃなかったし、説明が面倒くさくてさ。」

 

カリンがくすくす笑って、ぼくと彼女の肌が細かく擦れあった。

 

「わたし大学に入ってからね、仲良くなった数人の女友だちと温泉に行ったことがあって、その時に、あるひとりの友だちがこの模様のことにちょっと触れたの。そのこは表裏のないすっごくボーイッシュなこでさ、わりとラフな感じで、これを見て、なにか特別なもの、みたいだねって。」

 

『カリンこれって、もしかして何かすごいものじゃないの、もしかして勇者の証とかさっ!』

 

「特別な、勇者の証。」

 

「その子はゲームとかアニメとか大好きで、なかなかオタクな世界に足をどっぷり突っ込んでる子でさ、なんだかわたしの腕の模様にすごい憧れを持つみたいに、そう言ったのよ。ちなみにその子、かなりオタクだけど桁違いに美人で、スタイルもモデルみたいなんだよ。同性から見てもちょっとビビるくらい、うわぁ、いいなぁって、そう思うほど。でもね、彼女がわたしに向けた憧れは、腕の模様だったみたい。」

 

「いまでもその子と連絡はとってるの?」

 

「ううん、大学を卒業してからは、一度もあってないし、連絡もまったくとってないよ。ただ、その時にね、わたし、自分の模様が少し気になりだして、しばらく体の模様について調べてたことがあるのよ、あは、はははっ、今思ったらなんだかバカみたいだけど。」

 

「それがタトゥーの話に繋がるのかな?」

 

「聞きたいっ?」

 

カリンが今度はなにかの産業機械みたいなすごい速さでぼくの方に向き直った。

 

「その話は、いまから何時間くらいの講演ですか、教授?」

 

「バカっ、もう少しだけきみとこうしていたいんだよ、たぶんそれにちょうどいいくらいの時間の話だよ。」

 

ぼくは、カリンを少し強いくらいに抱きしめた。

 

「じゃあ、カリンのタトゥーの話に、耳を傾けようか。おれも、もう少しこうしていたいし。」

 

カリンはそれからしばらく黙って、なにかぼんやりとした表情で、ぼくの目の奥の方を見つめていた。