ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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神話

「人間はさあ、動物の血だけを糧にして、生きていけるのかなあ?」

 

「動物の血って・・・?」

 

「えっ、動物の血だよ、犬とか猫とかネズミとか、もちろん人間とかさ。」

 

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頭上には青と水色のグラデーションしか見えない台風一過の晴れ渡った土曜日、暑さが生み出す幻影以外は誰の姿も揺らめかない、ほぼ無人と言っても過言ではない市営の広大な、そして老朽化した運動公園の片隅で、左膝から血を流しながら苦虫を噛み潰したような顔でストレッチをしている少女を見かけた。

 

くすんだ赤の半袖Tシャツに短パン、上下ともにおそらくはずいぶんと使い込まれたであろう色あせたトレーニングウェアの赤が、大量の汗を吸い込んでどす黒い血に染まったように見えた。そして彼女の皮膚も、顔も腕も足も、さっき湯だったばかりのように濃い紅色に染まり、その表面からは透明な粒だった汗がギュンギュンと音をたてるように、露出した皮膚の穴から湧き出していた。

 

彼女の膝から汗に混じってにじみ出る生々しい色の血液がやけに気になったぼくは、すれ違い様にずっとそれを無意識に凝視していたに違いない。

 

ふと彼女の顔に目をやると、不快なものを睨みつけるような視線が、ぼくに突き立てられていた。

 

何かおかしな疑惑を持たれても双方嫌な思いをするだけなので、彼女の膝の血のことは忘れて、早々にその場を立ち去ろうとしたその時、彼女がぼくに声をかけてきた。

 

「頭にゴキブリがとまってますよ、そのおっきな麦わら帽子の上に、ゴキブリが。」

 

ぼくはその言葉を聞いて咄嗟に、かぶっていた麦わら帽子を地面に投げ捨てた。

 

彼女はぼくのその行動を見て、鼻からわずかな息を吹き出すようにして笑った。

 

自ら地面に投げ捨てた麦わら帽子を固まったようにじっと見つめているぼくに、彼女は再び声をかけてきた。

 

「嘘です。ゴキブリなんかとまってないよ。」

 

ぼくは大きなため息をつき、そして少し安堵し、麦わら帽子を地面から拾い上げて、一応その表面をすべて自らの目で確かめてから、ゆっくりと頭にかぶる。

 

いろいろなことが頭の中で溢れそうになったが、ぼくは彼女の顔を一度見つめてから、何も言わずにその場から立ち去ろうとした。

 

「わたしの服透けてるかな、透けて体が、裸が見えてる?」

 

ぼくはちょっとドキッとして立ち止まり、彼女の方に向きなおる。そしてもう一度、彼女の全身に目を向ける。やけに落ちついた口調の彼女の質問に対して、いったいなんと答えるべきかをほんの一瞬考えるが、そんなことを考えてもあまり意味がないことに気が付き、今の自分の頭の中の言葉をありのままに吐き出すことにする。

 

「あ、いや、それは、えっと服は透けてないと思う。ただ汗でびしょびしょだから、体のシルエットは浮き出ているかな。いや、おれがそれを見ていたとかってことが、」

 

「ううん、別にいいの。さっきも、なんか気持ち悪いおっさんがさ、ずっとわたしのこと見てて、だから気分悪くてさ。服が透けてるのかなあって思ってて、おっさんはしばらくしていなくなったんだけど、またわたしのこと見てる人がいたから、でも今度は別に気持ち悪いおっさんじゃんなかったから、聞いてみたくなっただけ。でもわたしシャイだからさ、ストレートに聞けるほど器用じゃなくて。」

 

「ああ・・・、そうなんだ、そうか、シャイか・・・。」

 

「びしょびしょのシルエットが、裸みたいで、見てたの?」

 

「いやいやいや、そういうことじゃなくて、シルエットはまあいいとして、信じないかもしれないけれど、裸が気になったわけじゃなくて、その膝、膝から血が出てるでしょ、けっこう出てる。だからそれが気になってさ、ずっとそれを見ちゃって、そのことで声をかけようかどうしようか迷ってて・・・。その膝大丈夫なの、とまってないよね、血が・・・、」

 

「えっ、もしかして、あなた血を吸う人?」

 

彼女の放った言葉の意味を理解しようとして、ぼくはしばらく無言になる。

 

「ねえねえ、きいてますか〜?」

 

「ああ・・・、ごめん、聞いてますよ。」

 

「あなた、血を吸う系の人?」

 

「血を吸う系って、なに?」

 

ぼくは少しおかしな加減に笑ってしまう。

 

「笑ってるってことは、血を吸う系の人かなあ。ごまかしてるのかな、わたしみたいなこじゃあ、血は吸ってくれないのかなあ?」

 

ぼくは再び無言になる。

 

「聞いてる?」

 

「ごめん、聞いてるよ、意味がよくわからなくてさ・・・。」

 

「そっか、血を吸う系の人じゃないのか、あるいは巧妙に隠してるんだね。」

 

「いや・・・、なにも隠してないけど・・・、血を吸う系の人・・・、」

 

「バイト先の先輩ね、血を吸う系の人と付き合ってるの。」

 

「・・・、」

 

「その話を聞いててさあ、わたしも血を吸う系の人と付き合ってみたいなあって思って、探してるわけ!」

 

「血を吸う系の人っていうのは、つまり・・・、なんか、そういうサディズムとか・・・、性癖とかってことじゃなくて・・・、」

 

サディズムって?それはわかんないけどさ、V(ヴィ)ってことだよ。ストレートに言ったらダメだった先輩に言われたから、ヴィな血を吸う系の人。」

 

彼女は、両手の人差し指を鼻の頭の上に突き立てた。

 

「まさかそれで、じゃあ膝の血は・・・、」

 

「ランニングで転んだわけじゃないんだよ、さっきから、自分でこのナイフで、」

 

彼女はびしょぬれの短パンのポケットから、やけに派手な装飾のバタフライナイフをまるでスマートフォンのように取り出した。

 

「ちょ、ちょっとちょっと、それはまずいでしょ、そんなことしたらだめだ。」

 

「なんで?」

 

「とにかく、血を止めよう、だめだよ。」

 

ぼくはバタフライナイフを持つ彼女の右腕を握りしめていた。

 

「なんで?」

 

「・・・、きみがヴァンパ・・・、いや血を吸う系の人を探していることはわかったよ、それは理解した。ただ、こんな真夏の、真っ昼間の炎天下で、きみが膝からいくら血を流しても、彼らはこんな場所には現れないっ!」

 

「日光が苦手だからでしょ、そんなこと知ってるよ。」

 

「じゃあ、なぜ?」

 

「先輩に教えてもらったの、それはずいぶん昔の話で、いまは日光を防ぐ装備や薬品が充実しているから関係ないって。それにね、最近は日光に耐性のあるVもいるんだって。」

 

「その人、その先輩、ちゃんと仲いい人かな・・・?」

 

「う〜ん、バイト先の先輩ではあるけれど、それだけかな。」

 

「おれの意見を聞いてもらえるかな?」

 

「意見?」

 

「きみの今の行動に対する、おれの意見なんだけれど。」

 

「うん、いいよ。」

 

「先輩が嘘をついているとか、冗談を言っているのかもしれないってことは、まあどうでもいい。ただ、さきにその血を止めよう。」

 

ぼくはそう言ってバックパックの中に入っていた白地のタオルを取り出し、彼女の膝の切り傷を押さえつける。

 

「タオルが血だらけになるよ・・・、」

 

「うん、血が流れ出ているんだから、仕方がない。」

 

洗いたての真っ白なタオルに、黒々とした赤がグラデーションを描き出す。

 

「日光に多少の耐性があるのは、今とか昔とかは関係なく、ずっと前からほんのごくわずかな純血種だけで、しかも、彼らだってこんな真昼には出歩けやしない。日光を防ぐ装備や薬品なんて話もフィクションの中だけだよ。」

 

「えっ・・・、」

 

「だから、こんな場所でこんなことをしていても、まったく意味がない。」

 

「先輩は嘘を言ってるってこと?」

 

「嘘か、たぶん冗談を言ってるんだろうね。先輩は彼が自分の血を吸うって言ってた?」

 

「うん。」

 

「話の状況はわからないけれど、もし先輩がその系の人と付き合っている、つまり愛し合っているのなら、彼女の血は吸わない。彼女が餌なら、吸うだろうけれど。彼女はきみになんて言ったの?」

 

「この廃墟みたいな運動公園の周辺に、彼らの集まる施設みたいなものがあるから、そこで日中に血液の匂いを漂わせれば、きっと素敵な出会いがあるって。」

 

「冗談の言い合いの話?」

 

「ううん、わたしはそうじゃなかったけれど。」

 

「そうか、まあそれはいいや。とにかく、だいぶ血は止まってきたみたいだから、」

 

大きな雲がふいに空に湧き出して、悪魔のような陽の光を陰らせた。

 

「ねえ、あなたは、だれ?」