タトゥー 後編の其一
カリンがいなくなってから、ぼくは日常とは何かということを、狂った猿のように繰り返し繰り返し考え続けた。いや違う、まだ狂う前だから考え続けたのかもしれない。ぼくはまだ狂った猿ではないから、考え続けられたのかも知れない。
狂ってしまったほうがどんなに楽かとも思った。でも狂うってことは思った以上に、その頃のぼくからは、遥か遠くにあった。
ある日、通りすがりの老人がぼくに話しかけてきた。息子に持たされている携帯電話をさっきどこかに置き忘れてしまったということだった。どうしたらいいだろうかと、唐突にたずねられた。だからぼくは、彼と共にここまで来た道を遡りながら、携帯電話を探すことにした。財布ではないから、ましてや話によれば通話しか出来ない簡易的な機種だということだから、誰かが取り去ってゆくこともないと思った。もし誰かがそれを見つけたとしても無視するか、あるいは交番に届けるようなものだろう、もしそれが仕方なくだったとしても。
その老人は、おそらくはかなり正確に、家からぼくに出会うまでの道のりを遡ったと思う。その間、ぼくは目が潰れそうになるくらいに道端を凝視しながら老人の後を追った。
けれど、老人の携帯電話は、彼にも、ぼくにも見つからなかった。
その後、道筋にある交番にも足を運んだが、そのような届け出はなかったということだった。
老人はずいぶんと肩を落としていた。たぶんそれは、携帯をなくしてしまったということよりも、息子への思いなのではないかと、ぼくはそう思った。
「本当に申し訳ありません・・・、大切な時間をずいぶん頂いてしまいました・・・、携帯電話は見つかりませんでしが、まあ、もういいんです。私には必要なものではなかったということでしょう。無理してそんなものを持っても、ただ重いだけの荷物にしかならないもんですなあ、はははは・・・。そうだ、これをね、」
老人はぼくに財布から取り出した一万円札を差し出したが、ぼくは断固としてそれを拒否した。そんなものを受け取ってしまったら、それこそぼくも重いだけの荷物を引きずっていかなければならなくなると思ったからだ。
「いいんですよ、ぜんぜんいいんです、な〜んにも予定のない日だったんですから、あなたといろいろな話が出来て、それだけでもう十分ですよ。」
老人はなかなか引かなかったが、それでも何度かのやり取りの後に、彼は空を見上げて、口を水辺の鯉のようにカフカフと何度か開けて、「はい。」と言って微笑んだ。
「いつかもし、ぼくがとんでもなく困っている時にあなたに偶然出会ったなら、その時はあなたに助けを求めることにします。」
「はい、そうしてください。」
「ただぼくは、いや・・・、」
「はい、その先はおっしゃらなくてもよいでしょう。さきほどいろいろとお話させていただいたから、あなたがどんな人か、わたしはわずかですが、理解したつもりです、万物はつながっているでしょうから。」
「そうですね、では。」
「はい、ではね、ほんとうにありがとう、ごきげんよう。」
「その教授は、河童のことを調べてるって人にちゃんと聞いてくれたのよ。すごいでしょ。」
「すごい、って?」
「えっ?」
「だって、聞いてあげるって言ったんでしょ、その教授は?」
「うん、そうだよ。でもさ、そうだけど、そんなこと言って、結局聞かない人がほとんどでしょ。そういう経験、きみにはないの?わたしはたくさんあるよ。そして、そういうのめちゃくちゃ腹立つでしょ、でも、ちょっともうそういうことにも慣れちゃったけど、でもさっ、」
「怒ったり興奮したりすると、手が震えるね。」
「ああ・・・、ごめん・・・。」
言葉とは違い、カリンの目の奥が棘ばっているのがわかった。
「いやいやっ、おれがごめんっ、つい言葉に出しただけで、手が震えるなあって思っただけで、それを批判してるわけじゃないんだよ、ごめん。」
しばらくの間、何の色をも持たない沈黙が、水辺みたいに漂った。
「この間のね、河童の彼から、ある論文を渡されました。彼の知る人が書いたものだそうです。」
「えっ、」
「彼はいま、学会の関係でずっと京都にいてね、たまたま先日二三日こちらに戻ってきていた時に、あの話をしたらね、じゃあといって、彼の知人に連絡をとってくれたようで、今朝これがわたしのところに届きました。」
「タトゥーの・・・、」
「はい、そうですよ、彼の知人が入れ墨の起源に関することを調べているようでね、いくつもの論文を書いているとのことでした。彼いわく、なかなか異端ではあるけれど、とは言ってましたが、付け加えれば、十分読む価値はあるそうですから、読んでみたらどうですか。」