ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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ジョン・ドー・ドリーム・ダイアリー、あるいはフー・アー・ユー日記。

夜見る夢の中で、夜じゃなくてもいいんだけれど眠っている間に見る夢の中で、「あっ、これは夢の中なんだ」と認識して、夢の中での行動を少し自由に制御できるようになったことをきっかけに、体に異変が起きるようになった。

 

いまが、ここが、夢の中だと認識して、自由な行動を取り出すと、ベッドの上で足が激しくつって、脹脛の筋肉が激しくつって、その凄まじい激痛で目が覚めてしまう。現実に引き戻されるのだ。

 

そしてその残響的な痛みに耐えながら思う。理不尽な痛みを伴って連れ戻されたここは、ここはさ、本当に現実なのか?

 

夢の中に出てくる多くの見知らぬ人々はいったい誰なのかって思ったこと、みんな経験していると思う。

 

人間は日常で目にする見知らぬ誰かの容姿や言動を、例えば道端で一瞬見かけた人や、リアルではなくても何かしらのメディアで目にした人々を、無意識に脳内に蓄積していて、それが夢に登場する様々な見知らぬ人々になるという話がある。けれど、例えば昨日の夢の中では、どこかの寂れた野球場で企業同士の草野球大会が行われていて、そこにはたくさんのまったく知らない人々がいたんだけれど、その数人は自分の家族の詳細や、自分の趣味嗜好を、本当に事細かに話すんだよ。

 

そんなこと、通りすがりの誰かや、何かのメディアで見かけた誰かの話だけで、蓄積できるかな?

 

そしてその後、野球場に、何かしらで汚染されて巨大化した腐ったようなヴィジュアルの無数の動物が押し寄せて、ほとんどの人々が体を引き千切られて貪り食われる。

 

ぼくは野球に興味がない、野球をちゃんとやったこともない、ルールもよくわからない。夢の中でも無理やりに参加させられた草野球を拒否している。けれど、参加を拒否した後の、横目で見ている草野球大会の様々なヴィジュアルは、なんだかやけにリアルに進んでゆく。

 

多角的な視点で、そこではぼくには関係なく、たぶんきちんとした野球大会が行われている。

 

そして、その野球場に突然迷い込んだ、体がボロボロに腐った巨大な獣の登場で、状況はカオスへと突き進む。

 

まったく知っている人がいない夢だった。知人は皆無だった。だからなおさら怖かった。

 

「お前誰やねんっ!?」って夢の中では、まだ突っ込んだことがない気がする。

 

いつか突っ込む日が来るかも知れないけれど、ただもし突っ込んだら、脹脛に埋め込まれたナノ爆弾が炸裂して、足が吹っ飛んで、ベッドの上で血だらけで悶え苦しむぼくがいるんだろう。

 

でもいつか必ず、突っ込む。

 

「おまえ、誰やねんっ!!!」

 

夢めっ。