ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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たとえば夜の夢をみたことがない人がいるなら、改めて丁重にこんばんは日記。

眠っている時間にみる夢の中で、それが夢の中だと完全に認識しているケースが有ることは、おそらくだが多くの人が経験していることだろう。

 

そういう範疇をまったく超越した、純カオスたる夢も一方ではあるが。けれどそれはさておき、比較的ドラマティックな夢の進行として、途中から完全に「あっ、夢の中だ!」と理解している場合がある。

 

今朝方みた夢の中でぼくは、途中からそれが完全に夢だと知っていて、行動を自分で制御することが出来ていた気がする。

 

これは補足だけれど、そういうときには、一度目を覚ましても、もういちど眠りに身を委ねれば続きをみることが出来る。

 

話を戻すと、つまりそれは、現実世界なら倫理的にしてはいけないと思うことをしても、「夢の中だから。」と思ってだよ、それを行動に移すことをしてみると、それがすんなり出来るのだ。

 

ただし、そういうケースはなんだか稀で、夢の中でも倫理的な判断に苛まれることが、それはぼくの場合だが、ほとんどである。

 

大抵は、夢の中でやってみたいことは、強い欲求に依存している。性欲とかけっこう強いと思う。あと、ぼくの場合には、飛行欲、空が飛びたい欲求が強い。暴力的な欲求もあるのかも。ほかにも、欲に依存した夢は多い。

 

ここで唐突な疑問だが、現実世界ってなんだよ?

 

夢をさ、科学的に、あるいは心理学的に研究している学者は山ほどいる。でも、あれってまったく見当違いのことをみているのではないのかと、ぼくは思ったりする。いやもちろん、ユングの全般的な話なんかは面白いけれど。

 

ぼくの夢には、こと自分自身がきちんとメインキャストとして、もっと言えばいわゆる主人公として登場する夢の中にね、必ず、猿の面をかぶった怪しげな人物が、必ずだよ、出てくるんだ。

 

ここで横道にすこしずれる。夢には、自分が主人公ではないケース、いわゆる主観ではなく客観で自分をみているものがある。そういう時には、自分は自分の姿をしていない、あるいは、コロコロ自分の姿が、あるいは立場が変わることがある。そういう時には、猿の面のヤツは当然いない。なぜなら、客観的に、その夢の風景のかなり広範囲をみることが、ぼく自身に出来ているからだと思う。例えば、主人公の主観では見えないビルの壁の陰に猿の面をかぶった怪しげな人物がいれば、その夢の状況では、ぼくには彼が、あるいは彼女が認識できるのだ、「あっ!なんだあいつは!?」ってね。

 

話を戻そう。

 

猿の面をかぶった人物の話は、このウェブログで度々話題に上げているし、そのネタを軸にして短い小説も書いている。

 

その猿の面をかぶった人物は、前述にも少しあるが、夢の中でぼくから身を隠しているんだよ。明らかに、夢の本筋とは違う立ち位置で、ぼくの夢の中に、入り込んで来ている。いや、はじめからその夢の中に、ぼくより先に、スタンバイしているんだよね。

 

そして、ぼくの夢の中にあって、ぼくに見つからないように隠れている。

 

今朝方みた夢で、一場面、おかしな箇所があった。

 

山の中にある、テーマパーク的に洋館を改装した建物が、その夢の舞台だった。細かな話は割愛するが、その広大な洋館の中でいろいろなドラマが生じる中、ぼくはある壁に刻まれた長方形の枠がずっと気になっていて、それを押してみたんだ。

 

それは隠し扉になっていて、中に、今まで夢の中に出てきていた“見知らぬ”人々が、まったく別な衣装を着ていて、つまり普段着でアワアワと動き回っていて、その中のひとりの中年の女性が苦笑いでぼくに言うのさ。

 

「ここは、違うから、入ってきちゃだめだよ、だめだめ。」

 

部屋の奥の奥に、フォーカスはボケていたが、猿の面をかぶった人物が更に奥に走り去っていったことは、言うまでもない。

 

これ、日記だからさ、本当のことを書いている。

 

夢って、なんだよ。

 

 

月白 貉