ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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ともだちがデモンズ、ほんとうはデモンズ、暗黒竜巻日記。

友だちっていったい誰なんだろう、何なんだろう。

 

今朝、明け方に夢から覚めて、ふとそう思った。

それまで見ていた夢の中に、古い友だちが出てきていたからだ。

 

夢に出てきたその友だちは、嘘つきで利己主義で、ほんとうに嫌なやつだった。そして、夢に出てくる友だちは誰しも、往々にして同じようにひどく嫌なやつであることが多い気がする。

 

ふと現実の世界を思う。

 

夢と同じように、ぼくの数少ない友だちは、たぶんみんな、嘘つきで利己主義で、嫌なやつだとは言えないまでも、自分の世界で生きている人々なんだ。

 

もちろん、ぼく自身がそうであるように、彼らも彼女らもそうなんだ。

 

ぼくは、嘘つきで利己主義で、おおよそ自分の世界だけで生きている。誰かのことを批判することはできるけれど、同時にそれは少し曇った鏡に怒鳴り散らすようなものなんだ。

 

最近、肉体的な自身の行き先をあまり気にしなくなった。

 

ぼくの知りうる死についてかな。

 

もう十分生きたし、もうこの血肉はそろそろ終わりでもいいじゃないか、ってさ。

 

多くの人々が、なぜそこまで、肉体的な生にこだわり、生きながらえようとするのかが、今のぼくにはまったもって理解できない。

 

死は、当然のごとく誰の前にも用意されている。そこから逃れられるものは、おそらくは誰一人としていない。中には、スペシャルな人々がもしかしたらいるのかもしれないけれど。

 

ただ、その死をさ、死を怖がる意味はあるのだろうかと。

 

虫や鳥や獣が人間から逃げるのは、死を恐れてなのかな?

人間は彼らに死をもたらす存在だからなのかな?

あるいは、少し違う意味合いで逃げているのかな。

人間が、あんなふうに必死で逃げることがあるとすれば、どんなシチュエーションかな。

 

自分たちに圧倒的な驚異となる、死の指先なんじゃないのかな。

 

いずれにせよ、もう、

 

そろそろいろんなことは終わりでもいいと思える午後の九時さ。

 

おやすみ、三角、角張った呪いと痛みのない、安らかな死が、今宵の我が眠りに静かに寄り添うように。

 

そして、そこに悪魔のような友だちの影がないことを、切に願う。本当の悪魔もね。

 

悪魔め。

 

おやすみ。

 

(この直後、頭上の蛍光灯が破裂する)

 

悪魔め・・・。

 

オゴポゴ。