ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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深淵のガラクタと、新たなキャットアサシン日記。

この数ヶ月ほど、ずっと感じていたことを、少し言葉にしてみよう、というガラクタ日記。

 

そういうことが出来るのは、自分の中身が、中身の中身が、大いなる嵐に包まれている時だということ。「穏やかなときじゃないんだ?」と、疑問に、そして反対に思えるかもしれないが、嵐が過ぎ去ってしまうと、心の本質を伝えることは難しい。忘れてしまうのだ。過ぎ去ると忘れてしまう。

 

苦悩の核にある時にしか語れないことがある。

 

少し前から、夢の毛色が変わった。

 

夢の物語が長い、長すぎる。かつてなく残酷でエロチックでもある。そして鮮明に覚えている。コメディの要素はほとんどない。シリアスな残虐性とエロティシズム。たぶんほとんどまともに睡眠をとっていないほど、ずっとずっと夢をみている。

 

夢とは関係ないかもしれないが、もうひとつ、数日前に怖いことがあった。

 

ぼくは毎日、日が落ちた後に、ある遺跡の脇を通って帰宅する。

 

本当に真っ暗闇のその遺跡には、並行して二本の小道があり、一方には少しだけの照明が設置されているが、奥のもう一方の道は、まったくの暗闇。奥の道には、日が落ちたあとの奥の暗闇の道には大いに興味があるが、ほんとうにまったくの暗闇なので、まだ一度も通ったことがない。

 

もちろん日中には何度も通ったことのある道だが、夜というものは、物事を圧倒的に変化させる。変貌させるのだ。

 

数日前に、ぼくが照明のある道を歩いていると、奥の真っ暗闇の道を誰かが歩いていることに気がついた。

 

ほとんど見えない。ほとんど見えないけれど、人のシルエットらしきものが動いている。歩いている。ほぼ、ぼくと同じ速さで歩いている。

 

そして、その人影の顔の部分が、体は正面を向いて歩いているのだが、顔だけが、首から上だけが、ぼくの方を、完全にぼくの方を見ている。ぼくを凝視して、おかしな笑みを浮かべて、歩いている。

 

実際には、その首や顔の角度や表情は見えない。けれど、その人影は明らかにこちらを見ていて、気味の悪い笑みを浮かべている。

 

ぼくは、かなり速いペースで歩いている。ちょっと異常に思えるほど早く歩いている。

 

その人影も、ぼくと同じペースで歩いている。その場所は本当に真っ暗闇なのに。

 

ぼくは怖くなって、走りだした。一番近くの大きな街灯に向けて。

 

日常の中に、おかしなことはたくさんある。当たり前だと思っていることの中にも、異常なことはウヨウヨ存在している。

 

きのう、奇妙な野良猫に出会った。

 

奇妙な野良猫だった。

 

その話は、いずれまた。

 

おやすみ、さんかっけい。