あまおと
「きみは、幽霊が・・・、怖いの?」
ぼくの顔を握りしめるように見つめる彼女の眼球は、小型の蜘蛛が部屋の隅っこに毎日毎日密かに張り巡らす糸みたいな、不規則な細い血管で覆われていた。
「えっ、いや・・・、幽霊が怖いわけじゃないよ、でも・・・、たださ・・・、」
「でも・・・、ただ・・・?」
「でも、きみは・・・」
「昨日、大きなトラックにはねられて、踏み潰されて、バラバラになった。首は体から引きちぎれて、もう、いろんなものがグチャグチャになった・・・。直前に目が合った道路の反対側にいたおじさん、きつね色の工務店の作業服みたいなものを着たおじさん、私がぶっ飛んで踏み潰されて壊れた後に、大声を上げて叫んでわたしのところに走ってきた。わたしの体に少しだけ触れた後、もう体なんてものじゃなくなったわたしに両手で触れた後、大声を上げて狂ったみたいに泣いてた。泣きながらトラックの運転手に獣の咆哮みたいに叫んでた・・・。あと覚えてるのは、トラック、すっごく大きいやつ、なに運んでるのか知らないけど、アホみたいに大きいトラックが私を・・・、」
彼女はその眼球を涙で覆った。彼女が望んでそうしているわけではないのかもしれない。ただそれは、自らの眼球をすべての邪悪なものから護るような、濃密で強固な防壁のように思えた。
いつかの記憶が時々、心を大きく揺り動かす。それがぼくの記憶なのかどうかもさっぱりわからないおかしな半透明な塊が、時々ぼくの体を駆け巡る。
「怖ければ、それでもいいよ、だた、少しだけ、もう少しだけ、きみがさ・・・、」
眼の前に真っ赤な閃光が走り、部屋の中には誰もいなくなった。
誰もいなくなったのではなく、はじめから誰もいなかった、そう判断するのがいいのかもしれない。
赤い閃光も、ぼくをみつめる誰かも、はじめからいなかったのかもしれない。
「きみは、何が怖いの?いったいきみは、何をずっと怖がってるの?」
彼女はよく、ぼくにそうつぶやいた。
「いろんなことが、怖いんだよ、だって・・・、」
外で雨が降っていることに、しばらく気が付かなかった。
彼女は雨が降ると、少し悲しそうにつぶやいた。
「雨は、好きなときもあるけれど、でもちょっときらい。」
「好きなときも、嫌いなときもあるってことだよね。」
「そうだよ、ぜんぶ、いろんなことは、ぜんぶそうでしょ。好きとか嫌いとかだけじゃ、ないんだもん。」
「うん、」
「私のこと、好き?」
「うん、」
「うん、って、なによ?」
「好きなときもあるけれど、でもちょっときらい。」
「へ〜、ちょっときらいなんだね。」
「そうさ、」
外で雨が降っている。昼間からずっと雨が降っている。春先の雨は、少なからず陰鬱な響きを奏でる。
いつかは止むのかもしれないその雨も、けれど、もしかしたら止まないのかもしれない。
雨は少し嫌いだと言っていた彼女は、きっといつか雨を避けて、ぼくに会いに来るのだろう。