ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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七時五十一分

「いま何分だ?」

 

「えっ?」

 

「時計を持ってないんだよ。」

 

「ああ、時間ですか、」

 

ぼくは慌ててズボンのポケットからiPhoneを取り出して、時刻を確かめる。

 

「七時五十一分です、いまは。」

 

老人が満足そうに笑みを浮かべてから、空を仰ぐ。

 

「ああ、そうか、まだまだ、まだまだ。」

 

「なにがですか?」

 

「時計なんてものが嫌いでさ。ただ、時々いま何分かなって、気になることが、時々だけれどあるだろ。いま何分だろうって。あんたはないのか?」

 

「ああ、いま何分かって、時々、ありますよ。だけど、ぼくも時計がきらいなんで。家には時計がないし、腕時計なんてもちろん持ってないし、いまはこれに表示される時間を信じてますけど、そういうことも、あんまり好きじゃないんです。この一年くらい、毎朝これに起こされていて、でもなんだかそういうこと、ずいぶん馬鹿みたいだなあって。」

 

老人は、顔をクシャクシャにして「ガハハッ!」と大きな声をあげて笑った。

 

「きょうは暑いなっ!」

 

「はい、きょうはこんな朝からもう、暑いですね。」

 

「恋人はどうした?」

 

「え?」

 

「あの石の上のこだよ、最近見ないな。」

 

「ああ・・・、そうですね、もう恋人じゃないんです。」

 

「そうか、そりゃすまん、まあいろいろあるわな、きょうは暑いなっ!」

 

「はい、暑いですね、じゃあ行ってきます。」

 

「はい、行ってらっしゃい!」

 

湖がやけに透き通っていた。ずっとずっと遠くまで、いつもは見えないその先まで、底が見えていた。これといってきれいなものが見えていたわけではない。けれどその静かな水面が、やけに美しく見えた。