七時五十一分
「いま何分だ?」
「えっ?」
「時計を持ってないんだよ。」
「ああ、時間ですか、」
ぼくは慌ててズボンのポケットからiPhoneを取り出して、時刻を確かめる。
「七時五十一分です、いまは。」
老人が満足そうに笑みを浮かべてから、空を仰ぐ。
「ああ、そうか、まだまだ、まだまだ。」
「なにがですか?」
「時計なんてものが嫌いでさ。ただ、時々いま何分かなって、気になることが、時々だけれどあるだろ。いま何分だろうって。あんたはないのか?」
「ああ、いま何分かって、時々、ありますよ。だけど、ぼくも時計がきらいなんで。家には時計がないし、腕時計なんてもちろん持ってないし、いまはこれに表示される時間を信じてますけど、そういうことも、あんまり好きじゃないんです。この一年くらい、毎朝これに起こされていて、でもなんだかそういうこと、ずいぶん馬鹿みたいだなあって。」
老人は、顔をクシャクシャにして「ガハハッ!」と大きな声をあげて笑った。
「きょうは暑いなっ!」
「はい、きょうはこんな朝からもう、暑いですね。」
「恋人はどうした?」
「え?」
「あの石の上のこだよ、最近見ないな。」
「ああ・・・、そうですね、もう恋人じゃないんです。」
「そうか、そりゃすまん、まあいろいろあるわな、きょうは暑いなっ!」
「はい、暑いですね、じゃあ行ってきます。」
「はい、行ってらっしゃい!」
湖がやけに透き通っていた。ずっとずっと遠くまで、いつもは見えないその先まで、底が見えていた。これといってきれいなものが見えていたわけではない。けれどその静かな水面が、やけに美しく見えた。