ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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それはきっと、スーパーヒーロー序説。

「太陽が沈む前の空、あれ、もう夜七時なのにねって時に、えっと、少しだけの時間、ピンク色になることがあるでしょ。空の真ん中の半分くらいがさ、ザザーって、青色とか水色からさ、黒にならないで、あれがね、わあピンク色だって時あるの。知らない国のお菓子みたいで食べたい時もあるし、何かの魔物の臓物にしか、そういう何か気味が悪くて不味いものにしか、嫌なものにしか見えないこともあるの。あるでしょ。」

 

些細な事で喧嘩をして、自分も相手も散々打ちのめされて、立っていられなくなって芝生に寝転んで空を見上げたら、空がピンクに染まっていた。

 

知らない猫が、知らない間に一緒に芝生に寝転んでいて、その白黒の猫と、ぼくと喧嘩をした彼女が、鼻をくっつけて、緑の芝生の上でピンク色の話をしているのが、ぼくの横目に映っている。

 

彼女はアメリカン・コミックのヒーローが描かれた少しくすんだ白のTシャツを着ていて、穴のたくさん空いた黒のジーンズをはいていた。

 

「怒ってごめん。」

 

猫が興奮して、異様に長い爪を指から伸ばして芝生をガリガリしている。何か虫がいるのかと思ったら、小さなカエルがいて、猫から、猫の興奮から逃げ遅れて猫に掻きむしられて、グッタリして、ぼくらと同じように空に腹を向けて、ピンク色の空を見上げていて、口から血を流している。それがぼくの横目に映る。

 

彼女のTシャツのヒーローの名前をぼくは知らない。彼女はアメコミのヒーローだと言っていたが、バットマンでもないしスパイダーマンでもない。あれは、一体誰なんだろう。

 

「きみはいつも怒る。出会ってからずっとずっと、いつも怒るよ。わたしも時々怒るけど、きみはそれよりもずっとずっと怒るよ。怒ったっていいけど、怒らないでほしい時だって、いっぱいあるよ。」

 

カエルの口から流れているのは血かと思っていたけれど、それは赤い糸クズだった。彼女のハンカチから解れて落ちた、赤い糸クズだった。だからカエルは口から血を流しているわけではなくて、ぼくらと同じように、やっぱりピンク色の空を見ているんだった。ぼくも見ているし、彼女も見ているし、白黒の猫も、疲れ果てたカエルも、その桃色の宇宙を見ている。

 

疲れ果てているのはカエルだけじゃなくて、彼女も疲れ果てているし、猫はきまぐれだからどうだか知らないけれど、ぼくだって少しだけ疲れ果てていたはずだ。

 

「怒って、ごめん。自分にもよくわからなくなることがあるんだよ。」

 

彼女はハンカチで鼻をかんで、その音にびっくりした猫が、カエルを咥えてどこかに走って行ってしまうと、芝生にはぼくと彼女の二人だけになった。ピンク色の空はずっとずっと濃くなっていたが、もうすぐに黒になる気配がした。猫は彼女が鼻をかんだ音にびっくりして走っていったんじゃなくて、もうすぐに黒になることを知って、それが恐ろしくなって走っていったんだということに、後から気が付いた。

 

「あそこの樹にね、空のスイッチがあるの。だから、きみ、押してきてよ。もし怒ったことが悪いと思うなら、あのスイッチを押してきてよ。あの松の樹だよ。きみがいつも怖がって下を通らない、折れ曲がった古い松の樹に、空のスイッチがあることをね、えっと、先週ね、見つけたんだよ。」

 

彼女は目を真っ赤にして、松の樹を指差した。

 

「わかった、空のスイッチを押してくるよ。でも、押すと、どうなるのかな。」

 

彼女は目を真っ赤にして、右手でピースサインをした。そのピースサインがいったい何を示しているのか、ぼくには意味がわからなかった。ぼくのことを許してくれるよってことなのか、喧嘩しても二人の世界はいつだって平和だよってことなのか、さっぱりわからなかったけれど、ぼくは悪いと思ったし、彼女のことが大好きだったから、芝生から起き上がって松の樹にある空のスイッチを目指して走った。

 

でも、松の樹には、空のスイッチなんて、なかった。

 

空のスイッチはなかったけれど、当てずっぽうで松の樹の乾いてガリガリした幹のいろんな場所を、無闇矢鱈と指で押していたら、空はピンク色じゃなくて、もうすでに空は黒く、芝生も彼女も、松の樹も、そしてぼくも、黒い空に押しつぶされかけていた。

 

「ピース。」という彼女の声が、真っ黒な闇の中の、ぼくのすぐ耳元で聞こえた。

 

「スーパーヒーローなんてどこにもいないのは知ってる。でも、世界が暗闇に閉ざされる前に、誰かに助けを求めたい時だってあるでしょ。ピンク色の時間は短いし、そのピンク色の空の下にだって、悪者は溢れているんだもの。だからきみには、怒らないでいて欲しいよ。」

 

真っ暗闇の黒の中で、彼女がぼくの手を強く握った。だからぼくも強く握り返した。

 

お題「この色が好き」

 

 

 

 

 

 

月白貉