水晶
「今年も、海に入らなかった。」
桃香はなんだか、世界が終わる前日みたいな陰気な表情を浮かべながら、夕暮れ時の影みたいに真っ黒な伸びをして、声をあげた。
「だって、きみ、泳げないんでしょ?」
「泳げませんよ、わたし山奥の田舎のこだから、学校にプールなんてなかったし、だからずっと、ちゃんと泳げないままだよ。」
「家族で海に行ったことはないの?」
「ないよ、ウチはね、家族旅行っていうの、なかったの。父も母もちょっと特殊な職業で忙しくてさ、みんなで旅行なんて行ったことないんだよ。子供の頃はそれが当たり前だと思ってた。だって、それが普通だったんだもん。家族で旅行なんて、今まで行ったことないの。」
「そっか。」
桃香が、真夏の沈みゆく太陽の下でクロールの真似事みたいに両腕を交互に振り回している。
「平泳ぎはね、ちょっと出来るんだよ。」
「泳げないのに?」
「クロールはできないのっ!なんか泳ぐてって言うとさ、みんなクロールじゃん!クロールとかよくわかんないし。カエルはクロールで泳がないじゃん!」
「たしかにカエルはクロールで泳がないね。」
「じゃあ、それでもいいでしょ。カエルは海にいないもの。わたしは、ちゃんと泳げないけど、カエルみたいにはちょっと泳げるの。海はこわいから嫌だけれど、どこかの水の中でなら、平泳ぎが少しだけ出来るの。それじゃだめ?」
ぼくは笑いながら、首をゆっくりと何度も横にふる。
「たぶん、平泳ぎが出来るほうが、きっと生きていく上では役に立つと思うよ。ぜんぜん、だめじゃない。」
「ほんと?」
「うん、そう思うよ。おれはね、平泳ぎが苦手なんだ。クロールだったらずいぶん長い距離を泳げる、ずっとずっと遠くまで。でもいままで平泳ぎで長い距離を泳いだことはない。たぶんそれはさ、つまり、ある状況では、おれはまったく泳げないに等しいってことだと思うんだ。」
「ふ〜ん、そっか、よくわかんないけど。」
桃香が雲間に輝く太陽を眩しそうに見つめている。
「井の中の蛙大海を知らず」
桃香が口を斜めによじ曲がらせて、少し笑う。
「それ、私のこと?」
「もしかしたらね、でもその言葉には、誰かが続きを付け加えたらしい。」
「続き?」
「うん、井の中の蛙大海を知らず、けれど空の高さを知る。他にもあってさ、けれど空の青さを知る、とかね。」
「ふ〜ん、でもなんだかちょっと悲しいお話だね。」
「そうだね、おれもそう思う。」
「純也は、どのあたりが悲しいっ?」
「井戸の中にいるってところ。」
「同じっ!井戸の中は嫌だもの!こわいよ・・・。」
「そうだよね、おれも嫌だ。そんなところで何かを知りたいとは思わない。」
「うん賛成、海とか空の高さとか、そんなもの知らなくてもいいけど、井戸の中は嫌だ。」
「うん。」
「わたしは、小さくてきれいな水たまりで、平泳ぎが出来るの。空の色や高さも、私なりに見えていれば、それでいいの。海のことも、誰かに聞いて想像するほうが、よっぽど楽しいでしょ。本当か嘘かなんて、誰にもわからないことだもの。」
夏の夕暮れが、空を奇妙なピンク色に染めていた。
「もし豪華客船に乗っていて、その船が沈没して海に放り出されたら、生き残るには平泳ぎが役に立つって、昔テレビで言ってたよ。」
「クロール派のおれは死ぬね。」
「その時は助ける、大海も空の上の方のことも知らないけど、少しだけ平泳ぎが出来るから。」