ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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水晶

「今年も、海に入らなかった。」

 

桃香はなんだか、世界が終わる前日みたいな陰気な表情を浮かべながら、夕暮れ時の影みたいに真っ黒な伸びをして、声をあげた。

 

「だって、きみ、泳げないんでしょ?」

 

「泳げませんよ、わたし山奥の田舎のこだから、学校にプールなんてなかったし、だからずっと、ちゃんと泳げないままだよ。」

 

「家族で海に行ったことはないの?」

 

「ないよ、ウチはね、家族旅行っていうの、なかったの。父も母もちょっと特殊な職業で忙しくてさ、みんなで旅行なんて行ったことないんだよ。子供の頃はそれが当たり前だと思ってた。だって、それが普通だったんだもん。家族で旅行なんて、今まで行ったことないの。」

 

「そっか。」

 

桃香が、真夏の沈みゆく太陽の下でクロールの真似事みたいに両腕を交互に振り回している。

 

「平泳ぎはね、ちょっと出来るんだよ。」

 

「泳げないのに?」

 

「クロールはできないのっ!なんか泳ぐてって言うとさ、みんなクロールじゃん!クロールとかよくわかんないし。カエルはクロールで泳がないじゃん!」

 

「たしかにカエルはクロールで泳がないね。」

 

「じゃあ、それでもいいでしょ。カエルは海にいないもの。わたしは、ちゃんと泳げないけど、カエルみたいにはちょっと泳げるの。海はこわいから嫌だけれど、どこかの水の中でなら、平泳ぎが少しだけ出来るの。それじゃだめ?」

 

ぼくは笑いながら、首をゆっくりと何度も横にふる。

 

「たぶん、平泳ぎが出来るほうが、きっと生きていく上では役に立つと思うよ。ぜんぜん、だめじゃない。」

 

「ほんと?」

 

「うん、そう思うよ。おれはね、平泳ぎが苦手なんだ。クロールだったらずいぶん長い距離を泳げる、ずっとずっと遠くまで。でもいままで平泳ぎで長い距離を泳いだことはない。たぶんそれはさ、つまり、ある状況では、おれはまったく泳げないに等しいってことだと思うんだ。」

 

「ふ〜ん、そっか、よくわかんないけど。」

 

桃香が雲間に輝く太陽を眩しそうに見つめている。

 

井の中の蛙大海を知らず」

 

桃香が口を斜めによじ曲がらせて、少し笑う。

 

「それ、私のこと?」

 

「もしかしたらね、でもその言葉には、誰かが続きを付け加えたらしい。」

 

「続き?」

 

「うん、井の中の蛙大海を知らず、けれど空の高さを知る。他にもあってさ、けれど空の青さを知る、とかね。」

 

「ふ〜ん、でもなんだかちょっと悲しいお話だね。」

 

「そうだね、おれもそう思う。」

 

「純也は、どのあたりが悲しいっ?」

 

「井戸の中にいるってところ。」

 

「同じっ!井戸の中は嫌だもの!こわいよ・・・。」

 

「そうだよね、おれも嫌だ。そんなところで何かを知りたいとは思わない。」

 

「うん賛成、海とか空の高さとか、そんなもの知らなくてもいいけど、井戸の中は嫌だ。」

 

「うん。」

 

「わたしは、小さくてきれいな水たまりで、平泳ぎが出来るの。空の色や高さも、私なりに見えていれば、それでいいの。海のことも、誰かに聞いて想像するほうが、よっぽど楽しいでしょ。本当か嘘かなんて、誰にもわからないことだもの。」

 

夏の夕暮れが、空を奇妙なピンク色に染めていた。

 

「もし豪華客船に乗っていて、その船が沈没して海に放り出されたら、生き残るには平泳ぎが役に立つって、昔テレビで言ってたよ。」

 

「クロール派のおれは死ぬね。」

 

「その時は助ける、大海も空の上の方のことも知らないけど、少しだけ平泳ぎが出来るから。」