ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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謎の幻覚性毒成分を持つ、本当はコワい海洋棲軟体動物の話。

無理矢理に参加させられた会社の飲み会から嘘の都合を理由に早々と退散して、ひとりで時々飲みに行く場末の薄汚れた居酒屋のカウンター席に座って粗悪な日本酒を飲んでいると、席をふたつ挟んで隣に居合わせた20代くらいに見える若い女性から声を掛けられた。

 

彼女は茶色い髪の毛をしていて少し西洋人のような趣の容姿を持っており、タイトなジーンズに白のTシャツという姿で、小柄ながら何かのスポーツ選手のような引き締まった体つきをしていた。そして体からは風呂上がりのような心地よい香りを放っていた。

 

「あの、あたし今タコの唐揚げを頼んだんですが、すごく美味しいんだけれどちょっと量が多くて、タコばかり食べてお腹いっぱいになっちゃうのも悲しいので、もしタコが嫌いじゃなくて、あたしの食べかけでよければ、召し上がりませんか?」

 

彼女は私にそう言いながら、自分の前にあるハイボールのグラスと小皿と、冷奴とキュウリの漬物と、そしてタコの唐揚げが盛られた器をひとつずつ順番に私から席をひとつ挟んだ隣に移動して、最後に自分も席をひとつだけ移動してきた。

 

私はその時まだ店に入ったばかりで、お通しの魚のアラの煮付けを細々とつまみながら酒を飲み、さて何を注文しようかと悩んでいたところだったので、彼女の言葉に甘えてタコの唐揚げを快くよばれることにした。

 

その居酒屋は、店内は薄汚れているものの料理の味に関しては申し分なく、こと魚介類の鮮度は折り紙付きだった。私はあまりタコを好まなかったが、ひとくち食べてみると驚くほどに旨く、後から箸が進んですぐに平らげてしまった。そしてそのお返しにと思い、もしよければ一緒につまめるようなものを注文するから、何か食べたいものはないかと彼女に尋ねてみた。

 

「あたしここのシメ鯖が好きなんです。注文してからシメてくれるでしょ。でもやっぱり量がすごく多いから、ご一緒させて下さい。」

 

私はカウンター越しで黙々と仕事をする無口な店主に軽く手を上げ、シメ鯖とマグロ納豆を注文してから杯に注がれた酒を飲み干した。するとその時なぜか一瞬だけ目眩がして、目の前の店主の動きがカラフルな残像を引き摺っているように目に映り、コメカミを鋭くて細い針で貫かれたような痛みが走った。しかし何かと思って咄嗟にコメカミに手を当てた時には、目の前のおかしな残像も痛みもすでになくなっていた。

 

それからしばらくして、マグロ納豆を仕上げてこちらに差し出した店主が次に鯖を捌きはじめると、彼女はその様子を楽しそうに見つめながら、時々上品に豆腐や漬物を口に運び静かにハイボールのグラスを傾けていた。その雰囲気からおそらくはひとりでじっくり酒を呑むのが好きなのだろうと思い、あまり余計な会話を挟まずに私もひとりで静かに酒を飲んでいた。すると今度は、首の後に何か虫でも這っているような感覚があり、すぐに右手で首の後を探ってみると、大きな羽虫のようなものが私の掌に触れて「ジジジジ」と暴れだした感触があり、つい「わっ!」と声を上げてしまったが、次の瞬間には首の後にも掌にも、そこにはまったく何もなくなっていた。

 

先ほどのおかしな目眩と痛みのことが、わずかに暗く頭を漂った。

 

「そろそろイカルキトウが旬ですよね。」

 

彼女が唐突にこちらに顔を向けて、やけに楽しそうな笑顔を浮かべながら、内緒話でもするような小さな声でつぶやいた。

 

「えっ、何が旬だって言いましたか?」

 

「イカルキトウです。」

 

「イカル、キトウ、それは魚の名前か何かでしょうか?。」

 

「イカルキトウ、ご存知ありませんか?この辺りの海でも、数は少ないんですがとれるんですよ。魚ではなくて海洋棲の軟体動物なんですが、実はあたしの父が漁師をしていて、運が良ければこの時期には家の食卓にイカルキトウが出されるんです。あ〜、でも、もしかしたら一般的にはあまり食べないかもしれないなあ。」

 

「海の軟体動物って言うと、名前からしてイカのような種類ですか?」

 

「ん〜、イカって言うよりもタコに近いですね。ただ体の色はほぼ黒に近い深緑色で、すっごく大きくなるんですよ。標準的な成体でも50メートルにはなるんじゃないかなあ。父は200メートルくらいのものを見たことがあると言っていました。」

 

「えっ、200メートル!そんなものがこのあたりの海にいるんですか?」

 

「はい、ただとれるのは幼体がほとんどらしいです。元々は南極海とか北極海とか、寒い海に棲息していた種類らしいんですが、いつの頃からか世界中の様々な場所で見られるようになったそうですよ。生態に関しては謎が多いということですが、なんでもずいぶん古い時代からいる生物で、かつては地上に棲息していたとか。南極で氷漬けになった巨大な成体の姿が観測隊に目撃されたこともあるそうです。そして父の話によれば知能がすごく高いんだとか。北欧の言い伝えなんかに出てくるクラーケンは、このイカルキトウの目撃談に由来するらしいですよ。」

 

「へ〜、イカルキトウねえ、初めて聞くなあ。味は美味しいんですか?」

 

「いや、あまり美味しくはないですが、母は体にいいからと言って食卓に出しますね。ただちょっと、食べるとハイになるというか。古い書物によれば、昔北欧ではシャーマンが儀式の際にイカルキトウの肉を使っていたようなので、もしかすると幻覚性の毒成分があるのかもしれませんね。」

 

「幻覚性・・・、ハイにねえ・・・、なるほど。でも話を聞いてしまうと、どんなものなのか一度は食べてみたいですねえ。」

 

そこまで話すと彼女は「ちょっと失礼します。」と言って席を立ち、どうやら洗面所に向かったようだった。

 

と同時に、カウンター越しの店主が「はい、お待ちどう様。」と小声で言いながら、見るからに旨そうなビカビカと輝くシメ鯖を差し出してきた。それはまるでシメ鯖に向けてライトアップでもしているのではないかという異常な光り方をしていた。何か違和感を感じながらも私が「どうも。」と言ってその皿を受け取ると、普段は無口な店主が私の顔を見てにやりと笑ってから、小さく囁いた。

 

「お客さん、さっきのイカルキトウ、味はどうでしたか?」

 

私が「えっ?」と声をあげてタコの唐揚げが盛られていた器に目を向けると、目の前に先ほどまで置いてあったはずのタコの唐揚げの器がなくなっているだけではなく、隣りにいた彼女のグラスも小皿も、冷奴も漬物もなくなっていた。

 

その後いくら待っても、彼女が洗面所から席に戻ってくることはなかった。

 

再び目眩がして意識が遠のき、一度目を瞑ってからゆっくりと目を開けると、私は自宅のテーブルに座ってひとりで酒を飲んでいた。テーブルの上にはいつも使っている刺身皿が置かれていて、そこにはヌメリのある奇妙な黒色をした刺し身のようなものが、どんよりと横たわっていた。

 

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月白貉