ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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悪夢と猫夢と、ミッドナイトゴダイヴァ日記。

きょう、小さな区切りを迎えた。

 

花をもらって、チョコレートと日本酒をもらって、半分の作り笑いと半分の本当の笑みを浮かべて、その後、家路についた。

 

そしてビリー・アイリッシュを聴きながら黙々と夕食を作り、気が付けば夜の十時前、やや古いアメリカのドラマを観ながらクソみたいなジャンクワインを飲み、少し深酒をして、零時を過ぎても珍しく起きていて、もう一度言うけれど深酒をして、冷蔵庫のサーモスタットらしき音と、頭上の電球が放つノイズを聞きながら日記を書きはじめている。

 

帰り際に、死んでしまったと思っていた三匹の猫のうちの一匹を見かけた。

 

三匹のうちの一匹はもう一年以上見かけていないし、もう一匹も数ヶ月見かけていない。

 

見かけたのは、エドガー・アラン・ポー。ぼくが何年も前にそう名付けた猫が、水たまりの水を必死で啜っていた。体は痩せこけていて、その体にはおかしな傷跡が無数に見受けられた。斑に毛の抜け落ちたピンク色の皮膚に、錆びついた槍でも突き刺されたような歪で痛々しい穴が空いていた。ちょっと目を背けたくなるような何か邪悪な傷跡のように思えた。

 

一年以上見かけていないのは、トーマス・エドワード・ロレンス、彼は確実にもう死んでいるに違いない。飢えてしまって、ゾンビのようにぼくの指に噛みついてきた彼のことが時々頭をよぎる。

 

もう一匹には、確か名前を付けていなかった。あれ、付けたんだっけ?よく覚えていない。彼に出会った頃、ぼくは誰かに名前をつけるほどの心の余裕を持ち得なかったのだろうか、あるいは付けたけれど、虚空に吸い込まれてしまって覚えていないのだろうか。もしかしたら過去の日記を読み返したら、彼にも名前を付けているかも知れない。

 

三匹のことを彼らと呼ぶが、おそらく少なくともその三分の一は彼女だと思う。

 

ポーとロレンスのどちらかは彼女で、二人の間に生まれたもうひとりも、もしかしたら彼女かも知れなかった。ただぼくにとって、それはさほど大切なことではなく、彼だろうが彼女だろうが、ポー以外はもう肉体を捨て去ったのかも知れないということが、少しだけ大切なことに思える。

 

猫たちは、毎日どこで何をしているのか、時々さっぱりわからないなあとふと思う。

 

どこかで朝を迎え、どこかで餌を探して、どこかでセックスをして、どこかで殺し合って、どこかで空を見上げて、もしかしたらどこかで何かを祈って、そして夜になるとどこかで眠っているのだろうけれど、そこは、いったいどこなのだろう。

 

I wish I could write as mysterious as a cat.

 

ポーはそう書いている。

 

ポーもロレンスも夢のことを語っている。

 

Those who dream by day are cognizant of many things which escape those who dream only by night.

 

と、ポーは言い、

 

The person who dreams at a corner at the heart tired in the evening knows the exhaustion of the dream as well as awaking. But be careful in the persons who have a dream at noon. They would open the eyes and make a dream come true certainly.

 

とロレンスは言う。

 

ポーは生きていて、ロレンスはたぶん、もう死んでしまった。

 

ポーとロレンスの子供にもし再び出会うことがあるなら、今なら名前を付けられるかも知れない。いや、もう付けていたのかも知れないけれど、それすらも忘れてしまったのだから。

 

この時期、湖岸は魚の死体で溢れていて、その波間の一帯は、腐肉の匂いで満ちている。早朝も昼間も夕方も、たぶんこの静まり返った深夜でさえも、魚の肉は徐々に腐りながら臭気を放ち続けている。

 

そこには様々な虫やハエたちがたかり、あるいはそこに卵を産み付け、孵化した幼虫が腐った肉をさらなる腐敗よりも早くに食べつくすのかもしれない。

 

ある日、魚に混じって猫の死体が湖岸に浮かんでいて、ぼくはその場で足を止めてしばらくその死体を見つめていた。

 

小さな区切りの今この刹那、まったく眠くならない。

 

眠くならないなら眠らなくてもいい。何もしたくない時は何もしなくたっていい。そういう当たり前のことを、ちゃんと見つめることが出来たなら、眠っている間に見る世界の意味が、夢の意味が、もう少しまともに理解できるんじゃないのかとおもう、この区切りピンポイント、ミッドナイト。

 

これからスコッチでもあおって、そして長い夢を見るさ。もう明日の朝なんて無くてもいいような、長い長い夢をみて、そして。

 

その前に、いま窓の外でぼくを見つめている灰色の毛の片目の見知らぬ猫に、異国の言葉でおやすみって言おう。