ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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夏が終わる頃の夕暮れの、少し血の匂いのするっと日記。

朝起きると雨が降り始めていた。

 

だからあまり起きたくはなかったけれど、なんとか起き上がり身支度を始める。トイレに行き、歯を磨き、軽いストレッチと一年半くらい続けている我流の筋トレをこなす。我流なので一体どこの筋肉にどんな風に効き目があるのかさっぱりわからないまま、無駄に続けている。ただ、見た目にはよくわからないけれど、かなり筋肉はついている。ついてしまったという言い方がよいかな。そして大して役に立たない筋肉だと思う、見た目にもあまり冴えないことから察するにだが。

 

それ、なんやねん?

 

自問自答ちう。

 

ぼくの人生には、そういうことがやけに多い。

 

どういうことかと言えば、まずなんにしてもおおよそ我流であること。だけど、人の教えは、けっこう素直に受け入れる。受け入れるべきだと思うものに関しては素直に。アホかと思うものは、がんとして受け入れない。無理やりなんてもってのほかで、異次元に受け流す。

 

ストイックな取捨選択、これね、ほとんどの人がまともに出来ていない事柄だと思うよ。

 

そして、その他の話だが、あまりなんの役にも立たないことを好む、しかるべくして、洗脳民族とは話が合わない。

 

あっ、日記を書かなきゃ。

 

この一週間くらい、日記を模索してみた。思いのままに意味不明な(意味はあるけれど)言葉を吐き出すことも、大切かなと思うにいたる。

 

だからそれはケイゾク

 

一年ほど前かな、ぼくの日常に現れた二匹の猫がいて、いやもっといっぱい猫は現れているのだけれど、勝手に親密だと思っている猫が二匹いる。

 

このWEBLOGを、この廃れたWEBLOGを、時々ライフルのスコープで見張っているごくわずかな人々は知っているかもしれない。ぼくが勝手に名前を付けて、たぶん精神的に寄り添っている二匹の猫のことを。

 

二匹はずっといつも一緒だった。

 

けれど、二匹の、いや二人の間に小さな仔猫が姿を現した日から、最初は三人で一緒だったのに、一人ずつでしか見かけなくなった。仔猫はいない。そしてある日、二人だけの日を何日も見かけた。

 

最初は仔猫が死んでしまったか、誰かに連れて行かれたのかと思った。

 

その後のことは、よくわからない。

 

いまでも時々、ひとりずついる。一緒に二人でも三人でもなく、一人ぽっちで、片方ずつがいる。

 

交代制かな。仔猫を世話して守る交代制に、ライフサイクルを変えたのかな。

 

仔猫はどこかにいるのかな。

 

たぶん誰かはそんなことはどうでもいいと思うだろうけれど、気になるでしょ。

 

そんな日記です。

 

きょう、ポーだけがいたから聞いてみた。

 

「みんなは?」

 

もちろん、無言だったし、いつものように猫パンチを食らったけれど、ちょっとやさしいパンチで、その爪がぼくの肉を引き裂くことはなかった。

 

血は流れなかった。