アラビアではない場所で、どこでもない場所で死んだロレンスへの、短い日記。
WEBLOGを毎日書かなくなったあの日から、もう二年くらいは経ったのかな。そんなことすらも、よく覚えていない。
本当は数日前に、小さな怖い話を書こうとしていて、その種を大切に凍らせていたけれど、書けなかった。その種が芽吹くことは、いつかあるかもしれないし、あるいはもうないかもしれない。
日々の眠りが、この数ヶ月、あまりにも浅いようで深すぎて、現実との狭間の、その境界の意味合いがよくわからない。奇妙な欲と、そして過去の罪悪感が渦巻く夢ばかり見ている。
それでも、許されるなら、果てしなく眠っていたい。ずっと。
果てしなく、ずっとずっと。
もし自らを押しつぶす狂った夢を伴うのであっても、今はもう少し、もう少し、もっともっと、眠っていたい。
「眠りを欲するのは、何かが変わる時なんですよ!」って、遠い昔に、ある女の子に言われたことがある。
夢と現実が交差する。
この数日、空にカラスが異常に増え、道端に棘を帯びた正体不明の黒い球体がいくつも転がっている。それがすこし恐ろしい。
そして、ぼくがロレンスと名付けた野良猫が、死んだ。
ある日、「やつらに餌を与えるな」という役所からの張り紙がなされ、その数日後、ロレンスが、骨と皮だけになったロレンスが、地面にわずかに溜まった泥水をすすっている姿を見かけた。
その時、もう彼は死ぬんだろうと思ったが、手を差し伸べることはしなかった。ぼくに出来ることは、たぶん、なかったんだ。
そしてロレンスは、彼ではなく、彼女だったのかもしれない。
ロレンスが死んだのかどうかは、ほんとうはわからない。
今となってはもう、なにもわからない。
ただもう姿をみかけることはなくなった。
ポーは生きている、ポーとロレンスの間に生まれた子供も生きている。けれど、その子供に名前をつける気力が、今のぼくにはない。
ロレンスは、出会ってから一度も、声を出さなかった。泣き叫ぶように口を開くけれど、その口からはいつも沈黙が吐き出された。だから声が出ないんだと思っていた。そしてロレンスの子供も、ロレンスと同じように声を出さなかった。口を開いて何かを叫んでいたけれど、ロレンスと同じような、あるいはそれを真似た、沈黙だった。
ロレンスを見た最後の日、ロレンスは「ニャーニャー」と鳴きながら、泥水をすすっていた。
「ニャーニャー、ニャーニャー」と確かに鳴いていた。
ぼくは、ロレンスの声が出ることに少し驚き、そして、もう死ぬんだろうと思った。
その時、ぼくはロレンスになにかするべきだったのだろうか。
なにか食べるものを与えるべきだったのだろうか。
抱きかかえて然るべき場所へつれてゆくべきだったのだろうか。
でもたぶん、それでもたぶん、ロレンスは死んでいたんじゃないのだろうか。
ロレンスはその数日前、死ぬ数日前に、暗闇の中でぼくの指先に噛み付こうとした。まるで映画に出てくるヴァンパイアのように、ぼくの指に、凄まじい形相をして噛み付こうとしたんだ。
いつも柔らかい空気を帯びてぼくにすり寄ってくるロレンスが、引きつって歪んだ顔でぼくの指に食らいつこうとしてきた。
ぼくはぎりぎりで咄嗟に手を引き、ただもしかしたら何か危険を事前に予感していたように確実に手を引っ込め、ロレンスの牙を避けることができた。
その瞬間、すごく、恐ろしかった、ほんとうに、すごく恐ろしかった。
何かの限界が、ロレンスに及んでいるんだと察した。
ぼくは、ロレンスが彼なのか彼女なのかも知らないし、声を持つのか持たないのかも知らない。いや、でも、最後に声は聞いたけれど。
ただ、ぼくとロレンスとの間に、何か糸のようなものが、きっと紡がれていたんじゃないのかと、そう思う。
あの瞬間、ロレンスに噛みつかれていたら、もしかしたらぼくの世界は変わっていたのかもしれない。
きっとね。
ロレンスが死んだあと、ロレンスの子供は、ニャーニャーと声を出して鳴くようになった。なんだか、心がぐるぐると渦を巻くような思いがする。
けれど、世界はそんなものさ。
さようなら、ロレンス。あのとき、きみに噛みつかれていたらよかったって、何度も考えたよ。本当に何度も、何度も。
だから、さようなら、ロレンス。