ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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名前はなくもないが、吾輩でもない猫野良ニッキー日記。

道端や公園なんかで、野良猫に大量に食べ物をあげている人をよく見かける。

 

そういう人に限って、その猫を保護するわけでもないのに無駄に体を触りまくり、猫が食べのこした大量の残飯はそのままにして去ってゆく。次の日同じ場所を通ると、その残飯は放置され、腐って虫が湧いていたりする。でも次の日も同じように食べ物を地べたにまき、野良猫を呼んで、体を触る。そういことを毎日繰り返しているようだ。

 

ゾッとする。

 

思うにあれは、ただ猫が触りたいがために飢えた野良猫に適当な食事を与えて気をそらして猫の体を触り、何か屈折した欲を満たしているんじゃないのか。

 

でも、猫たちを自分の家に連れて帰るという、重い責任は決して負わないのだ。

 

ぼくは野良猫が好きでよく写真を撮るけれど、食べ物をあげることはない。つまりそれは、食べ物をあげることで自分を認識してもらいたいとか、容認してもらいたいとか、仲良くなりたいなんて思っていないからなのかな。

 

そういうことで、彼らとのつながりを得たくないのだと思う。

 

もし波長が合えば、ちょっと頭をかいてあげたり、少しじゃれ合ったり、鼻先を触ったりするくらいで、あとは勝手に猫の目を見て(大抵は目をそらすが)、相手の近況を聞いたり、自分勝手な愚痴をこぼしたり、自由に言葉を発して、バイバイして、その場を去る。

 

大いに気まぐれな彼らだが、なんとなくの会話が成立しているようなきがすることもある。ぼくのこと、ちょっと気になってくれてるのかな?って。

 

そして時々、しばらくぼくの後をついてくる猫もいるが、彼らには自分の魔法が効くテリトリーがあって、その外には絶対に出ない。

 

野良猫は好きだ。その多くはずいぶん過酷な生き方をしているから、やさぐれちゃっている猫たちも多いけれどね。野良猫同士のいざこざだけではなく、野良猫に危害を加える人間がずいぶんいるのだと思う。この間も、野良猫に石を投げつけている老人を見た。理由はよくわからない。おかしな死に方をしている野良猫の亡骸を見たこともある。自然の事故じゃ、そんな死に方しないよね・・・、っていうさ。

 

ずいぶん昔の話だけれど、ぼくの祖父は小鳥が好きで、大きな自作の鳥小屋を作ってたくさんの小鳥を飼っていた。その鳥小屋は清涼飲料水の自動販売機くらいの大きさがあって、中には小さなチャボも二羽暮らしていた。

 

当時、近所にかなりガラの悪い巨大な野良猫がいて、その鳥小屋の小鳥が何度も何度もその野良猫の餌食になっていた。

 

ぼくは何度もその野良猫を見たことがあるが、あんなに凶悪な顔をした野良猫を、あれ以来見たことがない、という記憶が残っている。

 

ある日、祖父が鳥小屋からチャボを出して庭で遊ばせていると、その野良猫が風のように現れて、一羽のチャボの首元をガッチリと咥えて走り去っていったのだという。ぼくはその場にいなかったが、祖母がその状況を間近で見ていた。

 

その瞬間、祖父は凄まじい唸り声をあげて、納屋に置いてあった農作業用の鍬を手に取り、それを振り上げて、その野良猫を悪鬼のごとく追いかけて行ったらしい。

 

「このやろ〜っ!!!!!!!」という祖父の声が、ずいぶん遠くから何度も何度も響いてくるのを耳にしたと、祖母は呆れたように言っていた。

 

近所の人から見たら、凄まじい光景だったに違いない。

 

「まったく・・・、気が狂ってると思われただろうねえ。」と祖母は真顔で言ってた。

 

でもなんだか、祖父はその野良猫と、対等な立場だったんじゃないのだろうかって、最近ふと思った。

 

そんな野良猫日記さ。

 

にゃふ。