ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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ニュース速報です、パープルな猫感染プライベート日記。

誰かの日記を覗き見たことはあるかな。

 

物質的に文字で書かれた、鉛筆や筆で書かれた、ごく個人的な誰かの日記を。

 

覗き見ると言うと、なんだか気の狂った犯罪めいた、江戸川乱歩の描く世界のような趣きがある。でも、ひょんなことから誰かが真剣に書いている、誰にも見せていない、見せたくないけれど書いているほんとうに個人的な日記を見てしまうことってあるでしょ?

 

いや・・・、ない人にはない経験かな、けれど、ある人にはある経験だと思う。

 

あたりまえ、ないひとにはない、あるひとにはある。

ないひとにはあって、あるひとにはないもの、な〜んだ。というなぞなぞじゃないから。

 

話を戻す、ぼくは何度かある、日記の話。

 

そして結論として、そんなものは、誰かの真剣な日記なんてものは、見なくてもいいと思う。言い直そう、見ても読んでも楽しくなんかない。おおよそ、明るく得るのもはないし、そして感動もしない。勝手に誰かの心の隙間に入り込んでしまったような罪悪感と、鈍い痛みとか悲しみしか、そこにはないような気がする。

 

日記に悲しいことしか書いていないわけではない。うれしかったことも、悲しかったことも、クソだったことも書いてある。

 

でもねえ、なんだか苦しみや悲しみが、太字で書いてある。太字で書いてあるように、読める。

 

誰かの日記は、誰かの真剣な日記は、もちろんその全体としての存在を考えれば、少なくとも娯楽なんかではない。

 

そうなんだ、その誰かの日記を見て、太字で書いてあることの意味をさ、理由をさ、なぜか永遠と無駄に考え続けてしまうぼくとしては、やはり誰かの日記なんて、軽はずみに見るべきでは、もとい、言い直そう、読むべきではないのだろうって。

 

そんなことを思いながら、インターネット上に、気の狂った日記を放出する。

 

きょうは、キャットヴァンピールに感染したという理由で会社を休み、レベル20を超えた猫ストリゴイを二匹始末した。

 

行政は、キャットヴァンピールも猫ストリゴイも、もちろんその存在を把握すらしていない。

 

「キャット、ヴァ・・・?」

 

「あっ、野良猫に噛まれた感染症みたいなもので・・・、高熱が出て、いろいろやばいので、医者に行くので休みます。」

 

もちろん、ぼくは感染などしていない。

 

「えっ、野良猫にっ? ああ、わかりました、お大事にね・・・、」

 

「はい、あ、ちょっと大切なことですが、会社の近くに、ガリガリに痩せて毛が逆立った野良猫がいたら、注意してください。毛が薄い紫です、パープルのような毛になってます。」

 

「えっ?」

 

「あっ・・・、テレビのニュースには出ていないんですが、野良猫の保有する悪質なウィルスの感染が、この地域で広がってるって、会社の朝礼で言っておいてください。報道規制が敷かれていて、国が秘密にしているから、テレビでは当分言いません。でもかなりアブナイやつです。」

 

「あっ・・・、そうなんだ、わかりました。」

 

「はい、これマジですからね!」

 

「はい・・・、お大事に。」

 

大将、レインボースコッチソーダをトリプルで、もう三杯っ!

 

「あいよ。」