夏休みの自由研究は、本当はコワい百物語ごっこ。
2016年の夏が、唐突に終わったような気がした。
朝起きるとまだ空気は薄暗く、鳥は寝ぼけてあまり鳴かず、セミはもちろん死に絶えたようで、聞こえるのはカンタンやクツワムシやカネタタキのひとりふたりごとだけだった。
夏はいつだって終わるけれど、来年またやってくるのは知っているけれど、それがついさっき駆けていってしまった夏と同じなのかどうか、一年後くらいになって庭先にちょこんと座っている夏は、あの後ろ姿を見せて消えてしまった夏と同じなのだろうかと、少し寂しくなる。あの夏にもう会えないのだったら、もっとたくさん手をつないだり、頬を擦り付けたり、ほうぼう連れ回したり、笑いあったり、力強く抱きしめたりすればよかったと後悔する。
2016なんていう認識番号がふられているから、あれは固有の夏だったのかもしれないし、そして来年会うことが出来る夏は2017というやつだろうから、別の夏なのかもしれない。もしくはあれは年齢みたいなもので、ひとつ歳を取った夏が、少し成長して大人びた夏が、見知っているにも関わらず、少し人見知りをし出した夏が、再び訪ねて来るのだろうか。出来れば、見知らぬ夏よりは、今年少しだけでも触れ合っていた夏のほうが、なんだか親しみがあっていいような気もする。
何度も何度も夏がくるのに、ぼくはいまだにそんなことも知らないでいる。同じ夏だったのかそれとも別の夏だったのか、ずっと何度も繰り返されてきた事柄を、ぼくはまったく覚えていない。ただ夏の最後にだけ、あの夏の、こちらをまったく振り向きもせずに駆けてゆく後ろ姿を見た時にだけ、消え去ってゆく夏にそんな風に思いを馳せる。
そして夏のことは、すぐに忘れてしまう。
もし毎年毎年別の夏がやってきているのなら、その中には好きな夏や嫌いな夏や、少し喧嘩した夏や、淡い恋心をいだいた夏なんかがいたんじゃなかったのだろうか。そしてもし夏が、いつの日もただひとりの同じ夏だったなら、ぼくとその夏は、いったいどこへ向かって歩いているのだろうか。
「仕事はどうですか?」
店長が箸を持った右手を自分の顔の前にゆっくりと振り上げて横に揺らす。
「いや、全然駄目だ、全然見つからなくて、もう三ヶ月も過ぎちゃったよ。三ヶ月も過ぎちゃうと、なんだか見つからないことが当たり前になっちゃうんだよな。」
「そうですか・・・、その感覚、ぼくもわかります。数年前に同じようなこと、ぼくもありましたから。」
「ああ、言ってたな。でも、つっちゃんはなんだかそういう時でも、幸せそうっていうか、楽しそうなんだよな。それってちょっと、ちょっとじゃなくてけっこう、羨ましいよ。」
「店長だってそう見えますよ。悩んでるようになんか見えないから。」
「そうかな?」
「はい、見えないです。」
「そっか、あっ、漬物どう、うまいだろ。」
その日は土曜日だったのだが、サツキさんが仕事の都合で会社に出勤していて、けれどぼくと店長はいつもの焼き鳥屋には行かずに、店長の家でスーパーの出来合いの惣菜なんかをつまみにして酒を飲んでいた。
コロッケと鶏の唐揚げとポテトサラダ、しめ鯖と冷奴と漬物、漬物はサツキさんのぬか床で漬けた茄子と大根のぬか漬けだった。店長は焼き鳥屋でぼくが漬物の盛り合わせを頼むたびに、「おれはサツキ先生のぬか漬けを食べつけてるから、他のところのはまったく食べる気がしないよ。」といつも言っていて、たしかにそれは彼の言う通り、とても美味しいぬか漬けだった。
「すごく美味しいですよ、たしかにこれ食べたら、他のはなかなか食べられないでしょうね。」
「だろ、サツキ先生のは、美味しいんだよ。」
店長はサツキさんの手料理を食べる時にはいつも、本当に美味しそうな顔をして食べた。そしていつも何か誇らしげだった。
「店長はこの夏、ちょうどいいタイミングで、まさに夏休みでしたね。」
「なんだよつっちゃん、それって皮肉?」
「いやいや、違いますよ、純粋にいいなあと思って。」
「はははっ、そっか、もちろん完全無欠の夏休みだったよ。」
「なんか夏休みっぽいこと、しましたか?」
「う〜ん、夏休みっぽいことなあ。サツキ先生と海を見に行こうと思ったけど、結局行かなかったしなあ。う〜ん・・・、あっ、わりと毎晩、寝る前に恐い話を言い合った、サツキ先生とね。どう、それって夏休みっぽくない?」
「ああ・・・、まあ確かに夏休みっぽくはありますけど、そんなに怖い話のネタがたくさんあるんですか、二人とも?例えば夏が七月のはじめから八月の終わりまでだとして、ざっと六十日ですよね。わりと毎晩ってことは、まあ少なく見積もって三日に一回、日に一話だけだとしても、二十話ですよ。」
「言い合ってたからな・・・、仮にその計算だとしても、二人で四十話だな・・・、そりゃ多いなあ、そんなに話したっけな・・・、でもなんだかんだと話してたなあ、いろいろ。サツキ先生さあ、ちょっと霊感みたいなの、あるんだよ。」
「え、ほんとですか。」
「うん、でね、実はおれもちょっとある。」
「えっ!まあそれだったら・・・、四十話くらいは軽くあるのかなあ・・・。ぼくは霊感とか全然ないから、実体験としての恐い話なんて皆無ですよ、聞いたことある話だとしても、たかが知れてるし。」
「おれが霊感あるってのは、嘘だけど。」
「嘘かよ・・・。」
「でもさ、恐い話って言ってもいろいろあるじゃん、幽霊がどうとかだけじゃなくてさ。」
「まあ、そうですね。」
「おれさあ、けっこう恐い話を創作するの得意なんだよ。」
「へえ、それってちょっとした才能じゃないですか。恐い話って、まあ話し方とかもあるけれど、考えるのって難しいと思いますよ。」
「おれさあ、サツキ先生を怖がらせるために、この夏にさ、恐い話をさあ、ずいぶんたくさん考えたからね。」
「なんかそれって、夏休みの自由研究みたいで、いいですね。店長、いっそのこと、そういうのを仕事にしたらいいんじゃないですか。」
「そうだなあ・・・。こんな歳になってさ、いまさら誰かにこき使われて働く人生なんて、ぞっとしないもんなあ・・・。」
「サツキさんの話も合わせて何話あるか知らないですが、書いてみたらいいと思いますよ、店長、そういうの向いてると思うし。」
「そうだなあ・・・。サツキ先生の話はさあ、ほぼ実体験だからスゴイ恐いんだよ、マジで。」
「へえ、ちょっと気になるなあ、今度聞きたいです。」
「この部屋もね、ちょっとヤバイのがいるって言ってた・・・。なんかね、頭が潰れた老人が風呂場の浴槽の中にうずくまってることがあるってっ!」
「えっ、マジですかっ!!!」
「それは嘘、今即興で言ってみただけ、でも恐いだろ、風呂場に知らない爺さんがいたらさ。」
「嘘かよ・・・、じゃあ今度、しっかり作ったやつ聞かせてください・・・。」
「そうだなっ!」
店長が絵にでも描いたような満面の笑みを浮かべて、その時一瞬、彼の顔に夏の光が戻ったような気がした。あの夏の、夏休みの空の下で、麦わら帽子をかぶって虫あみ持って走り回る子供の、あのはち切れんばかりの笑顔が、ギラギラと輝く太陽に照らされているように、彼の顔がそんな風に見えた気がした。
店長の夏は、そして夏休みは、まだ終わってはいないのだろうと、ぼくには思えた。
月白貉