ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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盲目のもの

秋を目の前にしたある日曜日の夕暮れ時、私は妻に頼まれた買い物をするために近所のスーパーマーケットに歩いて向かっていた。その途中、地元で黒山道と呼ばれている小さな切り通しの道に差し掛かると、木々に覆われた薄暗い道のど真ん中に、キツネ色の短パンに白のランニングシャツを着た老人がしゃがみこんで地面を舐めるようにして周囲を見回していた。

 

私がその老人の後ろ姿を視界に捉えながらゆっくりと老人の方に歩を進めてゆくと、背後の私の気配に気が付いたのか老人は体の動きをピタリと止めた。そしてこちらには振り向かずに私に背を向けたまま声を掛けてきた。

 

「あの、すみませんが、私の周りに小さな巾着袋が落ちていませんでしょうか?」

 

私はその言葉を受けて老人の周囲の道のあちこちに目を向けてみるが、そこに巾着袋のようなものは見当たらなかった。

 

「ここで落とされたんですか?」

 

「いや、ここかどうかはわからないのですが、家に着いてみると腰に下げていた巾着袋がなくなっていたものですから、もう一度来た道を戻りながら探して歩いているのです。少々大事なものが入った巾着袋なのです。真っ赤な色をしているはずですから、落ちていればすぐにわかると思うのですが、この辺りに落ちていませんでしょうか?」

 

老人はいかにも不安そうな掠れた声でそう言った。

 

「どちらから歩いてこられましたか?私の歩いてきた道沿いには、赤い色をした巾着は落ちていなかったように思いますが、もし大事なものなら警察にでも届けたほうが、」

 

そう言いかけた時、不意にこちらに顔を向けた老人の顔には、目がなかった。口と鼻が当たり前のように付いている顔には、目だけがまったく付いていなかった。目があるはずの場所には、くぼみも膨らみも、まぶたもまつ毛も眉毛も、そして目玉も、まったく何も付いていなかった。

 

その顔を見て私は一瞬言葉を失った。

 

「あれ、なんだかいい匂いがするねえ。」

 

老人はしゃがんだままの体勢で私の方にズリズリと音を立てて振り返り、犬や猫が匂いを嗅ぐようにして空中で鼻をひくつかせながら、四つん這いになって私の方に近付いてきた。

 

「あんた目があるねえ。だって、目の匂いがするもの。」

 

老人はそう言って私の顔のあたりを見上げながらケタケタケタと大きな声をあげて笑い出し、その筋張った右の手で私の左足の皮膚を撫でるようにして触りだした。老人の手は氷のように冷たく、何かの粘液が付着しているかのようにベタベタと湿っていた。

 

私はその瞬間凄まじい恐怖感に襲われ、老人の手から逃れるためにザザザっと二三歩後ずさりをした。すると老人は四つん這いのまま、私の足を追いかけるようにして地蜘蛛みたいにこちらに体を移動させ、再び私の足に手を伸ばして皮膚を触ろうとしてきた。

 

私は思わず「うわあああっ!」と震えて上ずった叫び声を上げ、気が付くともと来た道を全速力で走っていた。

 

ーーーーー

 

「手の込んだ怪談話は後でいいからさ、ケチャップ買ってきてよ。それにもう怪談の季節は終わったでしょ。ケチャップなかったら今日はオムライス出来ないからね。」

 

わけも分からず家に駆け戻った私が黒山道でつい今しがた起こった出来事を妻に話すと、間髪をいれずにあっさりと一笑に付された。

 

「いや、冗談や嘘じゃないんだよ。今さっき本当にあったことなんだよ。すごく怖くってさ、だから買い物せずに帰ってきたんじゃないか。」

 

「落とし物をした視覚障害者のおじいさんが道にしゃがんで困ってたってだけなんじゃないの。」

 

「だって目がまったくなかったんだよ。小泉八雲の怪談に出てくるのっぺらぼうみたいに!」

 

「一般的にあまり知られていないだけで、そういう障害を持ってる人もいるかもしれないじゃない。」

 

「ああ・・・、そっかあ。でも、もしそうだとしてもさあ、目の匂いがするって言って笑ったり、執拗に足を触ってきたり、ちょっと普通じゃないでしょ?」

 

「もしかしたら認知症とかかもしれないでしょ。」

 

「ああ・・・、そっかあ、まあそういう可能性もあるけど・・・。」

 

「だったらやっぱり困ってるおじいさんかもしれないんだから、助けてあげなきゃじゃない。ケチャップ買いに行くついでにさあ、もう一回行って見てきなよ。」

 

「ええっ!それは無理だよ、もう日も落ちてて暗いし・・・、あの辺り外灯もないし怖いからもう行けないよ。もう、今日はオムライスは諦めるよ。」

 

「おじいさんは?もしまだ困ってたらどうするのよ、あたし自転車で見てこようか。」

 

「いやいや、それは駄目だよ。もしアブない人だったらどうするのさ!じゃあ、おじいさんのことはおれが警察に電話しておくよ。」

 

私はその後すぐに110番に電話を掛け、黒山道で老人が落とし物を探していたこと、その老人がもしかしたら視覚障害者かもしれないということ、そしてさらに認知症のような様子も伺えたことを警察に連絡した。

 

そしてその日の夕食のオムライスは、天津飯に姿を変えた。

 

ーーーーー

 

夕食を終えてからしばらくして、私がリビングでコーヒーを飲みながらテレビを見ていると、番組と番組の間に放送されている短いニュースの中で、速報としてある事件が伝えられた。

 

「こんばんは、はじめにニュース速報をお伝えします。本日午後七時頃、〇〇県〇〇市黒山の路上で、地元の黒山交番に勤務するサカタアキヒト巡査部長が、首と両足首を切断されて死亡しているのが発見されました。現在のところ詳しい状況はわかっておりませんが、切断された首と足首は現場からは発見されていないということで、警察では何者かがサカタ巡査部長を殺害の上、死体の一部を持ち去った殺人事件の疑いがあるとして、捜査を進めているということです。」

 

そのニュースを聞いた直後、私は無意識にテレビのリモコンを手にして電源を切っていた。真っ黒になった画面に目を向けたまま体を硬直させている私の横のテーブルの上では、携帯電話への着信を知らせるヴァイブレーションが唸りを上げていた。

 

盲目のもの

 

 

 

 

月白貉