ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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永遠のジェノベーゼと、脇腹に刺さったロンギヌスの槍日記。

今日の夕食は、ベーコンとタケノコを入れたジェノベーゼのスパゲティと、鶏胸肉のオレガノな炒めもの。あとレタスとか、チーズとかパンとか、ワインとか。

 

見切り品で買った大量のきゅうりが冷蔵庫の中で腐りだしていて、少しだけパーティープールになっていたので、全部処理してぬか床に投入する。

 

きょうは、ある映画を観ようと思っていたのだけれど、横槍が入って観られなかった。

 

横槍は、自分の中での横槍で、自分が放った横槍で、誰かが突き刺してきた槍ではない。

 

計画というものは、十中八九壊されると知るべきである。

 

献立の計画、映画鑑賞の計画、デートの計画、人生の計画、そして脱獄の計画もね。計画は壊されてなんぼなので、その先の先の先の先の先くらいをちゃんと読まなければいけない。そのくらいの先を読むことを、計画と呼ぶべきだ。

 

常々日々をぶち壊したいと願っているのに、限りなく穏やかな日常を送っているこの数年、そろそろぶち壊さなきゃいけないだろう。

 

いま、ぼくはその準備段階ではある、徐々にぼくの日々は壊れはじめている。壊しているから当然だけれど。

 

安定は幸せじゃないし、幸せは安定じゃない。

 

いや、静やかなる平穏は時として少しだけ幸せだよ、でもそれは安定とかじゃなくて、それは、例えば湖面が一切動きを止めたわずかな瞬間に垣間見る美しさみたいなものでさ。ぼくは、その一瞬のほうが、その刹那を握りしめるような生き方のほうが、好きなんだと思う。

 

思い通りにならないからこその、日々のなんと素晴らしいことよって、思えるように少しなったかな。

 

クソみたいな明日よ、それを少しだけ変える。努力なんてしない、ただ変えるのさ。

 

コンチクショウ。