ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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第五章 - 尼僧と猿神

前の話第四章 - 兵法

 

9月25日午後9時、ぼくは祖父とラゴと共に南黒町団地から約二キロほど離れた廃神社の鳥居の前にいた。

 

鳥居の周囲にほとんど街灯はなく、鳥居のすぐ脇にある電信柱に設置された防犯灯だけが、鳥居の周囲を古びたモノクロ写真みたいにぼんやりと浮かび上がらせていた。

 

祖父はいつも自宅にいる時と同じ履き古したジーンズにヨレヨレになった白い長袖のTシャツ、そして年季物のアディダスのスニーカーという、ちょっと散歩にでも出かける時のようなラフな出で立ちだった。そしてラゴは昨日と同じ、闇夜に同化してしまいそうな漆黒のパンツスーツに身を包んでいた。祖父は雑木林の中で拾ってきたような自分の身の丈ほどもある自然木の太い枝のような物を手にしていたが、ラゴの手には何も握られてはいなかった。ただ背中にはあの巨大な岩みたいなバックパックを背負っていた。

 

そしてラゴの背後には、昨日の話にあった二人の助っ人が半ば闇に溶け込むようにして立っていた。

 

ひとりは修道女の衣に身を包んで白髪をした西洋人の老女のように見えたが、ぼくの目には明らかに体が少し透けているように見えた。顔は喜怒哀楽のすべてを捨て去ったような能面みたいな表情をしていて、その色は髪の毛と大差ないくらいに真っ白だった。

 

もう一人は、こちらの体はぼくの目にもはっきり見えていたので明らかに実体があるようだったが、その姿は真っ白い毛を持った白猫だった。前日の話の中でラゴは猿神という言葉を使っていたので、ぼくはあの瞬間からずっと猿の姿をした何かを勝手にイメージしていたが、そこにいたのは完全なる猫にしか見えなかった。そしてその白猫は四足でピンと地面に立ったまま、まったく脇目も振らずにぼくの顔をじっと見上げていた。

 

「それじゃあ最後の確認事項だ、ふたりともよく聞いておくれ。あっ、あんたにはやるべきことはもう伝えたけれど、一応耳は傾けておいておくれ。」

 

ラゴはそう言って背後の足元に居る白猫に声をかけるようにして少し振り返ったが、白猫はそれに対して何も反応はしなかった。

 

「これから団地の穴を塞ぎに行く。本体が裂けだした穴の中にいればそのまま封じるが、外にいれば狩ることになる。おそらく本体とは別にハーフのやつが待ち構えていやがると思うが、現在の状態がどうなっているのかは一切わからない。ただ、穴の場所は事前にあんたが下見してるわよね、どこなんだっけ?」

 

「団地の建物三棟が建っている中央の小さな空き地、住民の死体が埋められていた場所だ。そこにかつてゴンゴの祠があったと言われている。」

 

「わかった。じゃあ手順としては、まず団地のエリアに入ったら、穴の場所まで三人で向かう。この時間帯ならおそらく、ターゲット本体は裂けだした穴の中か、あるいは穴の周辺にいる。ハーフもその主人に引っ付いて近くを彷徨いているはずだが、あくまでこれは最も基本的な予想でしかない。それを覚えといておくれ。で、その基本パターンの場合には、あたしとハンゾウさんが動き出すまでは、あたしたちの周囲に膜張っとくから、ハーフがどっかから不意打して来ても、まあ問題はない。ただ団地内でちょこまかされると厄介だからね、予定通りハーフは外におびき出してから潰す。だから、ハーフの姿を目で捉えて、あたしたち二人が動き出すまではハーフに手は出さないが、姿を見つけたら膜は外すよ、そこからが本番、あたしが合図を出す、よーいドンだ、いいね、ハクトちゃん。」

 

「・・・はい。」

 

「ただもう一度言っておくが、これはあくまで最も基本的な予想の範囲内だった場合の話だ。向こうが何かしらの形であたしたちのことを事前に察知している可能性も十分考えられる。つまりそうなると、向こうもあたしたちを狩る気満々で待っていやがるってことになる。本体が真正面でご丁寧にお出迎えってことや、ハーフがひとりじゃなく下手したらウヨウヨいるってこともあるかもしれない。その時はその時だ、あたしの判断で指示を出すから、それに従っておくれ。ハクトちゃん、あんたには昨日も言ったが、今は直前まで頭空っぽにして、はじまったら突っ走るってことだけ考えてな。」

 

「はい・・・。」

 

ハンゾウさん、あんたに余計な説明は不要だと思うから、やることやっておくれ。あたしの方でなにかのっぴきならないことが起こったら指示を出すし、あんたに起こったらこの尼さんに言って相談しとくれ。いずれにせよ今回、本体狩るならあたしが相手にしなきゃならないだろうからね。」

 

「わかった、私はやるべきことを完遂するまでだ。」

 

薄暗闇に浮かぶ祖父の横顔は、ぼくが今まで一度として目にしたことのないものだった。それはまるで黒色をした禍々しい造形の鋭い刃物が、闇の中で自ら恐ろしげな光を放っているように見えた。

 

「あと、こっからはハクトちゃんへの注意点だが、この後、団地までの道程と団地内で、おしゃべりは一切禁止だ。なにか伝えることがあれば、あたしが助っ人を介してあんたに指示を出す。あんたはそれにうだうだ答えたり質問したりせずに、黙って言われた通りに動く。基本は何度も言った通りこうだ、ハーフがあんたを追いかけてくるように仕向けるから、そいつを団地の外まで誘い出すために必死で逃げてくれればいい。団地を出ちまったらもうそれであんたの役目は終わりだ。ただ念のため、そのまま止まらずにこの神社まで出来る限りの力で走ってきておくれ。この場所が今回のあんたのゴールだよ。後のことはあたしか、あるいは、あたしが手が離せなかったら助っ人本人が指示を出す、話は以上だ。」

 

「はい、わかりました。」

 

「そしたら今から幕開けだ、終わったら三人で豪盛に寿司と決め込もうじゃないか。誰か一人でも喰われちまって通夜みたいな寿司パーティーになるのはあたしは嫌だからね、気合い入れな、おっ始めるよ。」

 

ラゴのその言葉と共に、彼女の背後にいた白猫がぼくの足元に駆け寄ったかと思うと、サササッとぼくの足を伝って背中の方によじ登ってきた。その瞬間、見た目には四足に付いた鋭く長い爪をあらん限りに伸ばしてぼくの足に食い込ませて登ってくるように見えたが、その爪の感触も、そして体の重さも一切感じず、少し冷たい風がぼくの体に沿って上昇したような感覚しかなかった。次の瞬間、ぼくの両肩に白猫の前足がしっかりと獅噛み付いているのが横目に映った。どうやら白猫はぼくにおぶさるような形で、背中にピッタリと張り付いているようだった。

 

「ハクトちゃん、聞こえるかい?」

 

ぼくはその頭の中にだけ聞こえてくるようなラゴの声に、「はい。」と口に出して言おうとしてから咄嗟にその声を喉に押しこめ、首を縦に振って頷くに留めた。

 

「上等上等、覚えが早くていいわね。そういうことさ、助っ人が周囲に居る限り、あたしがそれを介してあんたに言葉を送ることが出来るってわけだ。それと、あんたに付いてるのは人型じゃないから、その他の指示は助っ人が直接話しかけることもあるが、それに関しても同様に、おしゃべりも質問も禁止だ。あんたは何も言わず、ただ指示に従えばいい。じゃあ猫ちゃん、試しに相棒に自己紹介でもしてやっておくれよ。」

 

「これがわしの声だ、覚えておけ、坊主。」

 

ぼくの頭の中に響いた白猫の声は、可愛らしい猫の姿とは打って変わって、野太く掠れた地響きのようなものだった。ぼくはその声に対して心の中で「よろしくお願いします。」と呟きながら、右肩にガッチリ食い込んでいる白猫の前足に横目をチラリと向けて小さく頭を下げた。

 

祖父の方を見ると、もう一人の助っ人である尼僧姿の老女が、まるで老夫婦がデートにでも出掛けるみたいにして、祖父の右腕にピッタリ寄り添うようにして立っていた。

 

先に歩き出したラゴと祖父の背中を慌てて追いかけるように歩き出したぼくがふと一瞬暗闇の中で空を見上げると、そこに月の姿は見つからず、ただ斑に敷き詰められた灰色の雲だけが静かに漂っていた。

 

第五章 - 尼僧と猿神

 

 

 

 

月白貉