ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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ワン(one)

自宅の庭にある家庭菜園に、人間の成人男性を遥かに超える大きさの、蟷螂のようなものが立っているのを見たのは、もう真夜中を過ぎた頃だった。

 

寝苦しい熱帯夜に揺り起こされて徐ろに目を覚まし、暗闇に包まれた部屋の中を、病院内をヨタヨタと歩く重病人のように彷徨い、キッチンまで壁に手を伝いながらたどり着き、冷蔵庫からペットボトルの炭酸水を取り出して、その刺激と冷たさで体にへばりつくような暑さを振り払う。キッチンからリビングに目を向けると、庭に面したリビングの大きな窓は網戸を残して開け放たれていて、外からの風で音もなく静かに揺らめくカーテンが、スローモーションで飛び続ける白い鳥の羽のように目に映る。

 

空からの月光が庭の朧気な輪郭を描き出し、さらには庭に置かれた簡易の防犯灯が、庭の奥に広がる小さな家庭菜園を浮かび上がらせている。闇に彩られた、静かな風景だった。

 

しばらくその景色に目をあそばせていると、家庭菜園のトマトとキュウリの間に違和感を覚える。そこには、人のような影が紛れ込んでいる。急激に意識が研ぎ澄まされる。

 

見知らぬ人間が自宅の庭にいる。あの場所に立つには、人の背ほどもある垣根を乗り越えて来る以外に方法はない。正確な時間はわからないが、ベットに入ったのが午後十一時、もう今はおそらく午前零時はゆうに過ぎているはずだった。うっかり隣人が迷い込んでくる時間ではないし、そんな場所でもない。

 

瞬時に泥棒だと判断して、次の行動の選択肢がナビゲーションシステムのように頭の中に展開される。

 

大声を出して威嚇するべきか、電気を点けるべきか、寝室で寝ている妻を起こすべきか、あるいは警察に電話をするべきか。

 

気弱な泥棒であれば助かるが、気の狂っているような泥棒だった場合には、あるいは泥棒ではなくただ単に気の狂っているような人間だった場合にはなおさら、こちらのとった行動にたいしてどんな反応を示すかわからない。最悪の場合にはこちらに身の危険が及ぶかもしれない。

 

行動を起こす前には慎重な判断が必要だと思い、次の行動に出ることを躊躇していると、自分がメガネをかけていないことに気が付く。まずはメガネをかけなければならないと思い、暗闇に慣れてきた目でゆっくりと寝室に戻り、棚の上に置かれたメガネをかけてから、キッチンの同じ位置までさらにゆっくりと戻ってくる。

 

リビングの窓の向こうの庭が、先ほどよりも数倍クリアに目に映る。闇の中の家庭菜園には成長途中の小さな青々しいキュウリとトマトの実が見える。そして、その間に立ち尽くすようにして、まだ同じ場所に動かずに、人のようなものが立っている。服を着ていないように見えるが、裸なのか、裸の人間が立っているのか。裸であるだけでもすでに十分に恐ろしかった。しかし肌の色がおかしいような気がする。暗闇ゆえの錯覚だろうか。急激に体に震えが起こる。泥棒でも何でもなく、危険な部類の気の狂っている方の人間だと思い、不安が恐怖へと変化してゆく。

 

恐怖がある程度まで溜まりきった時、つい後ずさりして、キッチンのテーブルの上に置かれていた雑誌を床に落としてしまう。そのバサッという音にビクつくと、庭にいる人影も敏感に反応を見せる。身震いをしながら繰り返し左右に顔を向けだしたかと思うと、急に窓に向かって摺り足移動のような格好で、スピードを上げながら近付いて来た。何かバリバリと唸るような音が聞こえる。

 

人間ではない。手が、腕がおかしな具合に湾曲している。死神の持つ鎌の刃の部分のように、奇妙に湾曲している。

 

蟷螂だ。

 

ワン(one)

 

大きな蟷螂だ。異常に大きな蟷螂が、こちらにものすごいスピードで走り、近付いてくる。

 

体内の恐怖が容量を超え、その恐怖が液体化してドロドロとしたものになって、さらにそれが口から溢れだしてくるような吐き気を催して、嗚咽してしまう。

 

大きな蟷螂は、次の瞬間、急に高く上方にジャンプして窓枠の中の庭の景色からその姿を消してしまう。

 

虫の羽音を何百倍かに膨張させたような、ブズブズブズブズという空気の震えが遠ざかっていくのが、空の上の方で聞こえていた。

 

これが、まず一つ目に起こった、出来事だった。

 

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月白貉