ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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邪教徒の影を匂わせる、本当はコワいトンネルの話。

関連する物語普通の人間霊と野生の人間霊と、もっと高いところにいる本当はコワい霊の話。

 

トンネルに足を踏みれたぼくが、その異常な冷気や湿度を差し置いてまず感じたことは、暗闇の中を満たしている言葉で表現することの出来ない匂いのようなものだった。

 

人はまったく未知なるものに触れた時、それが一体何なのかということを頭で認識して理解することはほぼ不可能に近いと言っても過言ではない。それを何かに喩えたり、新たな事物だと仮定して捉えて想像したりすることも、瞬間的には無理に等しい。トンネルの中に漂うものは正にその正真正銘の未知に違いなかった。そしてぼくはその時、想像とは常に既知の延長の産物でしかないのだということを思い知らされた。ただ暗闇の中に隙間なく漂っている何かをもし無理矢理にでも表現するなら、それは吐き気のするような黒色だったと言えるかもしれない。

 

トンネルに入る直前、キルクはしばらくの間トンネルの奥を凝視しながら、抑揚のない淡々とした小さな声で、トンネル内でのいくつかの注意点について語った。

 

それは恐いおとぎ話には必ず出てくる三つの約束みたいな、不気味だけれど何か心躍るというような趣など一切持ち合わせていない、悪夢が現実となる怪しげな呪文にしか、ぼくには聞こえなかった。

 

「シロキくん、LEDライトを持ってきてるみたいだけど、トンネルの中では絶対につけないで。霊体は光に異常に敏感だから、下手したら腕ごと、最悪体ごと持ってかれるからね。中に入ると最初は真っ暗に感じるかもしれないけど、トンネル内はおそらく別の世界と入り乱れちゃってるから、奥に進めば進むほど実際の暗闇とは関係なく周囲はどんどん見えてくるはず。あと写真撮るなら、入ってすぐの所から奥を撮せば十分やばいもの撮れると思うから、先に撮っちゃった方がいいかもね。フラッシュはいらないから。あとトンネルの中では、理解不能なことがいろいろあると思うから一々言わないけど、もし自分の周囲が完全に真っ黒になって私を見失ったり、もしくは私が逃げろって言ったら、全速力で走って外に出ること。」

 

トンネルに入ってすぐの場所で、ぼくは先をゆっくりと進むキルクの方に写ルンですのレンズを向けて、何度もシャッターを切った。「カチッ、カチッ」という通常ならまったく達成感のないシャッターボタンの音がやけに重苦しく響き渡るように感じるほど、トンネル内はまったくの無音状態だった。トンネルの外で先ほどまでは聞こえていた風の音や蝉の鳴き声も、まるでトンネルの入口に透明な防音壁があるのではないのかと思うほど、一切聞こえなくなっていた。

 

前方に揺れ動くキルクの背中を頼りにして、あまり周囲には目を向けないようにトボトボと暗闇の中をしばらく進んでゆくと、キルクが急にピタッと立ち止まって指を大きく開いた右手を頭の脇に掲げてぼくに止まるように合図をした。その瞬間、周囲に立ち込めている黒色の匂いのようなものが明らかに濃密になり、その黒色がもはや自らの意志でぼくの口や鼻から体内にドロドロと流れ込んでいるような気さえして、一瞬呼吸の仕方がわからなくなったぼくは小さく嗚咽の声を上げてしまう。

 

「大丈夫?」

 

「はい・・・、すいません。」

 

「無理そうだったらすぐ外に出てね。」

 

「まだなんとかギリギリ大丈夫だと思います。」

 

「そっか、ねえ、私の前の左右の壁、見える?ここ、思ってたよりずいぶんやばいよ。」

 

キルクの少し前方の暗闇に浮かび上がる岩がくり抜かれただけのようなゴツゴツとしたシミだらけの壁の両脇に目を向けると、そこには黒々とした丸太を二本継ぎ合わせた、まるで磔刑の十字架のようなものが壁を埋め尽くすようにして荒々しく無数に打ち込まれていた。丸太の十字架のほとんどはずいぶんと古びていて、中には朽ちて一本だけになったり、打ち込まれていた壁の穴を残して抜け落ちているものも見受けられたが、その光景はさながらトンネル全面に張り巡らされた宗教的な意味合いを持つ強固なバリケードのようにも見えた。

 

「シロキくん、ここから奥に向かって写真撮ってみて。」

 

「はい。」

 

ぼくは再び写ルンですを手に取り、十字架の群れの奥で不気味に蠢いている闇に向けて何度かシャッターを切った。するとなぜか急激に暗闇に目が慣れて来たような感覚があり、その十字架の少し奥に通路を塞ぐようにして巨大な石像のようなものが置かれているのがぼんやりと目に映りだした。その石像は人型ではなく、球形に近い胴体と、その両脇に節のある長い腕を無数に持つ昆虫のような造形をしていたが、頭部と思われる部分は崩れてしまっているのかどこにも見当たらなかった。

 

その石像にしばらく目を奪われていたぼくの両腕に、「ビチビチビチッ」とでも音を上げるようにして凄まじい鳥肌が立ち始めた。

 

その石像の背後から石像の輪郭にまとわりつくようにして、溶けた真っ黒いコールタールみたいにドロドロとうねった人間の影のようなものが、ゆっくりとこちらに押し寄せるようにして湧き出てくるのが見えた。それがひとつの塊なのか、何かが群れているのかを把握する余裕はぼくにはなかったが、無数に見えるドロドロの人影の顔の部分には明らかに血走った目のようなものが開かれていて、その睨みつけるような視線は完全にキルクとぼくに向けられていた。

 

その光景の放つ異常な威圧感は、もはや理解するとかしないとか、生きるとか死ぬとかいうことを超越していた。

 

「キルクさん・・・、キルクさん・・・、」

 

「私にも見えてる、だめだ、ここ出よう。シロキくん先に走って逃げて。」

 

「えっ、」

 

「はやくっ!さっき言ったでしょ!!!」

 

ぼくはキルクの言葉に飛び上がったようにして反応し後ろに振り返ると、次の瞬間あらん限りに腕と足を振り乱して淡い光が漏れているトンネルの小さな入口に向けて無我夢中で走っていた。

 

夜見る夢の中で、どんなに必死で走ろうとしてもまったく走ることが出来ないということがある。ぼくがその時、トンネルの入口を抜け出るまでに感じていた無限にも思える時間は、その夢の感覚に近いものがあった。

 

わけもわからないまま何とかトンネルを走り出たぼくは、すぐに振り返ってトンネル内の暗がりに目を向けた。息はそれほどあがってはいなかったが、急に走ったせいもあるのかトンネル内で感じていた吐き気は依然として継続していた。

 

日常的には感じたことのない常軌を逸した恐怖のせいかも知れないが、目の前にあるトンネル内のその闇の中から、大量の蛆虫やゲジゲジやムカデや、そんな考えられる限りの悍ましい生き物たちがウヨウヨと湧き出てきているような耐え難いヴィジョンが頭の中を駆け巡っていた。そしてその汚物的な闇から湧き出てきた生き物たちは、黒色の闇を体にびっちりと付着させボタボタと垂れ流しながら、トンネルの外にある餌食までを求めてワラワラと溢れ出てきているような感覚さえあった。

 

「キルクさん・・・、」

 

まったくの闇に包まれてしまったようなトンネルの中に、キルクの姿は見えなかった。

 

「キルクさん・・・、」

 

キルクの名前をうわ言のように口から何度か発したその時、まだほんの数時間しか時間を共にしていないキルクの顔が頭の中に柔らかな光のように浮かび上がり、黒色の生き物たちが群れるヴィジョンを一掃させた。

 

ぼくはこれまで感じたことのないような根拠のない強い使命感にかられ、目の前に蠢くトンネルの闇に再び足を踏み入れるために、まったくの躊躇なくその一歩を踏み出していた。

 

「おいおい、シロキくん、戻ったら死ぬぞ。」

 

おもむろに背後から肩を叩かれゾクッと体を震わせて後ろを振り返ると、ぼくの肩に手を掛けて静かな笑みを浮かべるキルクの姿があった。顔色は淡いミントグリーンのように変色していて額からはわずかに血を流していたが、その笑顔を見た瞬間、ぼくの中に湧き上がってきていたかつてなく凄まじい緊張感は、幸運にも脆く崩れ去っていた。

 

「キルクさんっ!大丈夫ですか!?」

 

「調査終了、おつかれちゃん。」

 

「いやいや、終了はいいですけど・・・、だって、まだトンネルの中にいるのかと思って・・・、あれはなんですか!?」

 

「言ったでしょ、人間の霊を食う奴らだよ。」

 

「それは聞きましたけど、いや、もう意味がよくわかりませんよ!怖いとかいう話どころじゃないですよ!」

 

「なんでまたトンネル入ろうとしてんのよ?」

 

「いやだって、まだ中にいるのかと思って・・・。」

 

「助けに行こうとしてくれたんだ、なかなかカッコイイじゃん。」

 

「だって・・・、一緒に来てるのぼくだけですよ・・・、放っておくわけにはいかないでしょ。でも大丈夫なんですか?頭から血が出てるし、ひどい顔色ですよ・・・。それに、どこから出てきたんですか?」

 

「話は後にしよう。そろそろ日が傾いてくるし、ここにいるのはちょっとまずい。それに、まずは山を離れないとね。」

 

「えっ、まずいって言うと・・・、」

 

「私たちの調査が終わったとか、そんな都合は奴らにはどうでもいいことだからね。日が落ちたら、この山全体がトンネルの中と同じ状況になりかねないから。」

 

「はい・・・、わかりました、早く行きましょう!早く行きましょう!」

 

キルクとぼくは競歩みたいにして一気に山道を駆け下りた。

 

山間に見える空が、やけに生々しいピンク色に染まりだしていた。

 

to be continued... , maybe?

 

邪教徒の影を匂わせる、本当はコワいトンネルの話。

 

 

 

 

月白貉