ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

follow us in feedly

下駄箱ナイトメア

父の葬儀のため実家に帰省したぼくは、葬儀を終えた次の日の夕方、生まれ故郷の寂れた街の中を、なんのあてもなく歩きまわった。

 

子供の頃、毎日毎日歩いた小学校への通学路に差し掛かると、夏の陽が急激に傾きだした気がした。ふと何かの残像のような記憶が頭をかすめて、何もない虚空に、手を伸ばす。そして、母校だった小学校を見に行きたくなって、かつての通学路を歩き出す。

 

色を増す夕暮れ時、誰もいない小学校の門を抜け、職員室に見学の許可を取りにゆくと、ずいぶん怪しげな眼差しを向けられる。

 

ぼくが卒業生で、校内を見学したい旨を申し出ると、「当時の校長の名前は、ご存じですか?」と尋ねられる。

 

担任の名前なら覚えているが校長は覚えていないと言うと、「そうですか、わかりました、まあいいですよ、どうぞご自由にご覧になってください。」と言われる。

 

答えられても答えられなくてもどちらでもいい質問を、なぜ投げかけられたのかが、あのやりとりに何の意味があるのかが、しばらくの間、むず痒くてたまらなかった。

 

もしかしたらあれは教職員ではなくて、勝手に小学校に忍び込んで、職員室にいた人々を皆殺しにした後の、見知らぬ誰かだったのかもしれない。そんなことを考えてみる。

 

夏休みの小学校には、誰もいない。

 

誰もいない小学校は、忘れられた冷たい遺跡みたいだと思った。この小学校の中に、いまでも夢によく出てくる場所がある。不思議な光が射し込む入り口の下駄箱。その下駄箱の夢は、決まってすごく怖ろしい夢だった。

 

なぜだろう、ここでなにかあったのだろうか。

 

ぼくの浅い場所の記憶は、そのことをもう覚えてはいない。

 

人はいろんなことを忘れてしまうんだ。

 

f:id:geppakumujina:20160711164316j:plain

 

 

 

 

月白貉