ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲が自らの感覚で日本を歩きまわって見聞を広めたように、故郷を離れて旅を続けるぼくが、ぼくの感覚でその土地を歩き回って、見たり聞いたり嗅いだり触ったりした、ぼくの見聞録です。

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明
明

森にある井戸跡の不気味な噂と、本当はコワい通り魔事件の真相。

私の自宅から最寄りの駅まで最短で向かう道程の途中に、必ず通り抜けなければならない小さな森があった。

 

かつては土地を治める大名の別荘地だったと言われているその森には、その中心を横切るようにして木々に囲まれたトンネルのような趣の遊歩道があり、 昼間には散歩やジョギングを楽しむ人々の往来が頻繁に見られたが、その遊歩道沿いには外灯の類が一切設置されていなかった為、夕暮れを過ぎた後の時間にはパタリと人の往来はなくなるような場所だった。

 

街の人たちが夜間に森の遊歩道を避ける理由は、もちろん真っ暗で足元がまったく見えないということもあったのだが、もうひとつの大きな理由として、遊歩道の途中にある森の中の井戸跡に、夜になると「何かが出る」という都市伝説めいた噂がまことしやかに囁かれていたからだった。

 

その噂の不気味なところは、その何かという部分が不透明なヴェールに覆われていることにあった。明確に幽霊が出るとか、道化師の格好した人影を見るとか、凶器を持った不審者がうろついているとか具体的なことを言われれば、それだって不気味は不気味だが、まだ前もって想像がつく分だけ恐怖はグンと抑えられる。けれど、その井戸跡に一体何が出るのかということに関して、誰ひとりとして明確な言葉を持っていなかった。

 

ある日、妻のリナとテレビを観ながら夕食を共にしていると、ローカルニュースの速報として、今から1時間ほど前に私の住む地域で通り魔事件が発生して、アルバイトから帰宅途中の地元の女子大生が何者かに腹部を激しく噛み切られて重症を負ったという報道がなされた。被害者の女性は怪我を負った状態で近くの飲食店に助けを求めてすぐに病院に搬送されたが現在意識不明の状態だということで、さらに警察の話によれば、女性が襲われた現場となっているのは白神森の遊歩道だと見られていると、若い女性アナウンサーが淡々と伝えていた。

 

「えっ、ちょっとマジなの?」

 

動揺したり怒りを抑えられなかったり、あるいは独り言をつぶやく際に、リナは普段はあまり使わないような単語を口にすることがあった。あるいはそれが彼女の本質的な言葉遣いであり、自分と対話する時と誰か自分以外の者と話す時とでは、彼女はまったく違う話し方をするのかもしれないが、彼女が日常生活でマジと言うのを私はほとんど聞いたことがないように感じた。

 

その時、リナが急に体をビクンと震わせたかと思うと、彼女は持っていた箸を床に落としてしまった。

 

「ねえ、玄関のカギ、ちゃんと掛かっているかどうか、いますぐ見に行くから、一緒にきてくれない・・・?」

 

リナは落とした箸は拾わずに泣きそうな表情を浮かべて隣りに座っている私の顔を見つめながら、私の腿を右掌でギュッと鷲掴みにした。彼女の体が異常なくらいに震えているのが、私の腿にブルブルと伝わってきた。ニュースで報じられた事件の現場があまりにも身近な場所だったので、そのことに異常な恐怖を感じているのかと思ったが、私の知っている限りでは彼女はそれほど怖がりではなく、どちらかと言えば気の強い方だった。もちろん今現在この家の近所に、ついさっき女子大生を襲ったばかりの異常者がうろついているかもしれないという事実はあり、そのことに関しては私だって、ニュースを聞いた瞬間ゾッとして身の毛がよだつ思いがしたが、彼女の怯え方は度を越しているように思えた。

 

「さっきちゃんとカギは掛けたし、チェーンもしてあるよ。そんなに心配しなくても大丈夫だよ。」

 

リナは私の顔を凝視したままさらに激しく体を震わせて、私の言葉を激しく否定でもするかのように首を何度も横に振り、誰かに聞こえては困るとでもいうようにして、掠れた小さな声を私に投げかけてきた。

 

「窓見て、窓見て、早く、早く、窓見て、なにあれ、ねえ、なにあれ・・・。」

 

その言葉に促されて、私がテーブルを挟んで正面にあるカーテンの開け放たれたベランダ沿いの窓の方に顔を向けると、隣の空き家の雑草だらけの真っ暗な庭に、何か黒いものが二足で立ってこちらを見ているのがはっきりと目に映った。その何かは人影のようにも見えたが、周囲の明るさとは何ら関係なくそれ自体が真っ黒で、しかし胴体があり足があり手があり頭があり、頭の部分には明らかに目らしきものがあり、窓越しにじっと家の中を見ていた。私がその時完全にその何かと目があったと感じた次の瞬間、黒い何かは突風に煽られる草むらのようにして捩れながら、窓枠で区切られた景色の外のどこかにものすごいスピードで走り去ってしまった。その一瞬の一部始終が過ぎ去った後になってから、私の全身を豆粒のような鳥肌が走り抜けた。

 

その後どのくらいの間、私とリナが無言のまま体を硬直させて窓の外を呆けたように見つめていたかはわからない。

 

「きみ、あれにいつから気付いてたの・・・?」

 

やっとのことで我に返った私は、なんとか小さな言葉を発しようとしてリナに聞くまでもないような記号的な質問をしてしまった。その瞬間、先ほど彼女が言っていた玄関のカギのことが大波のように頭に押し寄せ、私の意味のない問いに対する彼女の返事も聞かないまま席を立って半ば無意識の内にすぐに玄関に走っていた。

 

玄関の照明を付けてカギの掛かっている状態を確認した私は、何かに導かれるようにしてドアに付いたスコープにゆっくり目を近付け、玄関の外の様子を確かめてみた。けれど私の悪い予想には反して、ドアの外に何か黒い異常なものが立っている様子は見受けられなかった。

 

私がリビングに戻ると窓のカーテンは閉められていて、リナが台所の流しで自分の箸を洗っていた。彼女はもうそれほど怯えてはいないようだった。

 

「念のため、警察に連絡したほうがいいのかな?」

 

「ああ、そうだなあ、でも・・・。」

 

「でも?」

 

「でもあれ、人に見えた?」

 

「よくわかんないよ。あのニュースと重なったから、あたしすっごい怖くなっちゃってたし、勝手に頭の中で犯人と結びついちゃってたしさ・・・。」

 

結局私はその後すぐに警察に電話をして事情を話すことにした。しばらくすると制服姿の警察官が2人やって来て、私とリナは玄関先で簡単な事情聴取を受けた。事件の内容が内容だけに、現在現場周辺には多数の警察官が配備されて捜査が進行中だとのことだった。そしてもしまた何かあればすぐに連絡して欲しいと言い残し、2人の警察官は帰っていった。

 

ただ警察に先ほどの出来事を話す際に、余計に話をこじらせないようにと事前に2人で相談した結果として、警察に話したのは隣の空き家の庭に見知らぬ人間が出入りしていたという内容に留めておいた。そのため2人の警察官は帰り際に、この後すぐに空き家を調べることになるかもしれないから、窓から再び庭に誰かがいるのが見えることになるかもしれないけれど、ライトを持った人影が見えたらそれはおそらく私たちなので安心して手でも振って下さいと、私たちを気遣った冗談を口にしていた。

 

しかしその夜、私たちは決して窓の外になど目を向けなかった。

 

それからしばらくの間、テレビのニュース番組は連日通り魔事件の話題で埋め尽くされていたが、依然として犯人の足取りをつかむことは出来ていないようだった。そして、被害者の女子大生は死亡したとの報道が、事件当日の三日後に伝えられていた。新聞やテレビの話によれば死因については不明確な部分が多いとのことだったが、どうやら毒物による可能性が高いとのことで、ワイドショー番組などでは白神森の井戸跡の噂と、死因とされる毒物の話を独自に組み合わせた話題集めの怪しげな都市伝説まででっち上げる始末だった。

 

現場である白神森の井戸跡は実際には井戸ではなく、かつて大名が井戸に見せかけて作らせた抜け穴だというのです!そして、そもそもこの場所は、さらに遡った時代における土着の民俗信仰と関係のある聖域であり、井戸の穴自体はその遺構の名残で、なんと穴の内部は儀式の際に用いる特殊な薬物の貯蔵庫としても使われていたという話があるのです!

 

現在でも、その後抜け穴として伸ばされた穴の先が森から離れたある場所まで繋がっていて、そこは長らく空き家だとされているのですが、実は事件の犯人は、かつての民俗信仰をいまに受け継ぐカルト集団のひとりであり、儀式の一環として今でも何年かに一度のペースで・・・、

 

私の横で番組を観ていたリナが独り言のようにぼそっとつぶやいた。

 

「その空き家ってさ、隣じゃないの・・・?」

 

森にある井戸跡の不気味な噂と、本当はコワい通り魔事件の真相。

 

 

 

月白貉