ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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黄金と月の湖

「おとといさ、湖でたくさんのエイが空飛ぶ絨毯みたいに泳ぎ回っているのを見かけたんだよ。最近ずいぶん暖かくなってきたから、湖岸には透明な緑色をしたさ、そしてなんだかやけに禍々しい渦を巻いた水草がモサモサ生え出してて、その水草の上をエイたちが宙を滑るようにして、まるで飛んでるみたいに泳いでたんだ。それをじっと見てたら、なんだか目が離せなくなっちゃって。」

 

「あの湖、エイがいるの?」

 

ミリアがピーナッツクリームの入ったコロネを食べる手を止めて、鹿の子供みたいに目を丸くした。

 

「うん、いるみたい、汽水湖だからかな。」

 

「きすいこ?キスイコッテ、ナンデスカ、オシエテクダサイ。」

 

ミリアが古いSF映画に出てくる女性型アンドロイドみたいな声色を真似て言葉を発する時には、その瞬間彼女は大抵まったく別のことを考えている。けれどそれを知っていても、ぼくはいつも話を終わらせずに続けることにしている。

 

「海水と淡水が入りまじってる湖のことだよ。」

 

「ああ、ジェリーフィッシュレイクみたいなやつね。」

 

そう言ってミリアはコロネを右手に持ったまま、両腕を羽ばたかせるように上下にゆっくりと揺らし、声を出さずに何かをつぶやき出した。彼女は時々ぼくとの会話の途中に、いやぼくとだけではないのかもしれないけれど、いま話している話の内容を異次元に引き込んでしまうような動作を始めることがあった。女性型アンドロイドの声真似もその一つのバリエーションだ。

 

もしかしたら彼女の中では、自分が話していることに関連付けて声色を変えたり腕を振ったりしているのかもしれないのだが、多くの場合ぼくにはその意味合いが鮮明にはわからなかった。ただそんな時の彼女の口調や仕草は、いまこの瞬間の時をだんだんと滲ませ、さらには空間に穴を開けて、自分と話し相手をその穴に優しく誘う不可思議な力のようなものを持っていた。

 

ジェリーフィッシュレイク?」

 

「そうだよ、ジュンヤは知らないの、ジェリーフィッシュレイクのこと。」

 

「初めて聞いたよ。でも名前からすると、もしかしてその湖にはクラゲがたくさんいるのかな。」

 

「ピンポーン、正解。」

 

ミリアが左手をピストルの形にして、何もいない部屋の隅に向けて何度も何度もトリガーを引いている。

 

パラオにある湖でね、森の中にあるんだけど、地下トンネルで海とつながってるの。それでね、その湖にはクラゲが何百万匹も泳いでるんだって。」

 

ミリアはコロネの最後のねじれた尻尾をやけに楽しそうに頭上に掲げて、まるでクラゲが泳ぐみたいにしてフワフワと揺らしてから、それを大きく開いた口の中に放り込んだ。

 

「そうなんだ、ずいぶん幻想的な湖なんだろうね。ミリアは行ったことがあるの?」

 

「ないよ。パパに聞いたの。」

 

「ミリアのパパは行ったことがあるのかな?」

 

「さあ、どうかしら。でもね、パパは家の中で私と二人きりになると決まって、ジェリーフィッシュレイクの話をするの。ジェリーフィッシュレイクの話しかしないの。何度も何度も聞いてるし、いつも同じ話。それもう何千回も聞いたやん!って話なの。でもね、パパのその話を聞いてると、何だか落ち着くんだ。だんだん、だんだん、時間がゆっくりになってくるような気がしてさ。例えばその日にすっごく嫌なことがあったとするでしょ、でもパパのその話を聞くと、ぜ〜んぶ忘れられるの。嫌なことも悲しいことも、もうすっかり消え去るの。」

 

ミリアがいつの間にか目を閉じながら話している。

 

パラオがどのあたりにあるのか今はうまく想像がつかないけど、もし近所にそんな湖があるなら行ってみたいね。」

 

「そうだね、そんな湖で泳いでみたい。」

 

「そんなにクラゲがいたら、残念ながら泳げないだろうね。」

 

ミリアが目を開けて一瞬だけぼくの方に顔を向けた。

 

「ううん、泳げるの。そこにはね、ゴールデンジェリーフィッシュとムーンジェリーフィッシュっていうクラゲがいるんだけど、毒が弱くてたいして害はないの。」

 

「パパが言ってたの?」

 

「そうだよ。」

 

「黄金と月は毒が弱いのか、なんだかどちらも毒が強そうに思うけれど。」

 

「黄金と月には毒があるの?」

 

「さあどうかな、クラゲみたいな毒はきっとないだろうけれど、どちらもある意味では毒みたいな力を持ってるんじゃないのかなってこと。」

 

「I see.」

 

初夏の風が窓の外の青々とした柿の木の葉を揺らし、その葉を揺らした後、今度は薄い白地のカーテンを大きく揺らしながら部屋に入り込み、ぼくとミリアの体をゆっくりと撫で、髪を揺らした。

 

風が二人を吹き抜けていった直後に彼女が背後を振り返り、何もいない部屋の片隅を見つめて笑みを浮かべている。

 

ジェリーフィッシュレイクと海をつなぐ地下トンネルの真ん中くらいには広い空間があって、そこにね、すっごく昔の神様を祀った古い神殿があるの。」

 

「パパに聞いたの?」

 

「ううん、違うの。そんな気がするの。」

 

「なるほど、それで。」

 

「それでね、たぶんだけど、ゴールデンジェリーフィッシュとムーンジェリーフィッシュに毒が少ないのは、きっと、その神様が毒を奪うからなの。」

 

「毒を奪うのか。その神様は毒を奪って、大量の毒を溜め込んで、どうするのかな。」

 

「愚かな人間どもを皆殺しにするのさ!」

 

ミリアがまた別の声色を真似し始める。

 

「ねえ、ジュンヤ、これから湖にエイを見にいこうよ。」

 

「うん、いいね、いこうか。」

 

窓から吹き込んでくる無数の風の群れが、もしこの部屋のどこかにあるぼくには見えない穴に流れ込んでいるのなら、その穴の先はどこに通じているのだろうか。どこかの森の中にある“風たまり”なのか、風を司る古き神が棲まう神殿なのか、あるいは何百万匹ものゴールデンレイとムーンレイが飛び回る水なき湖なのか。

 

ぼくは湖に出かける前に、ミリアにそのことについて聞いてみようと思ったが、しばらく考えてからやめることにした。

 

「エイにも毒はあるの〜?」

 

玄関先でしゃがみこんで靴の紐を結んでいるミリアが、部屋で身支度を整えているぼくにいつもより少し大きな声を上げた。

 

「うん、あるらしいよ、それもけっこう強い毒が。」

 

「へ〜、でもエイは何のためにそんなに強い毒を持ってるの?」

 

「おれが言わなくても、きみは知ってるんでしょ、その理由を。」

 

「愚かな人間どもを皆殺しにするためさっ!」