ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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黒い給水塔

窓の外に給水塔が見えた。集合住宅の屋上にそびえ立つ給水塔が、日が暮れかけた時間に黒い鎧をまとった騎士の如き姿をこちらに向けていた。

 

この部屋で暮らしはじめて、あの黒々とした給水塔に気付いたことがあっただろうか。生き急ぐ柿の木はあった。遠くに見えるゴミ溜めのようなアパートメントはあった。その奥に近代的で無機質なビルディングもあった。でも、あの給水塔を屋上に携えた集合住宅があっただろうか。

 

景色とは曖昧なもので、それは歳を重ねた肉体の劣化による記憶の喪失とはなんら関係なく、暴走し、破壊され、頭のなかで薄れてゆくに違いない。

 

日が暮れる瞬間、空の漆黒を背負っているのは給水塔だけではなく、その上に軽々しく片膝を立てて座り込んだ暗黒色のものがいた。

 

恐ろしいという以外に表現する言葉が見当たらなかった。

 

誰かは言うだろう、闇が怖いだけだ、暗がりが怖いだけだ、光がないことが、ただ怖いだけだと。

 

それは違う。闇を好むものが怖いのだ。暗がりに住むものが怖いのだ。光が生み出す影がこわいのだ。

 

見知らぬ集合住宅の屋上には給水塔があり、そこには明らかに闇が潜んでいる。

 

昔話でもなく、都市伝説でもなく、怪談でもなく、現実なのだ。

 

 

 

 月白貉